茶の間とは:個人的な所感、なんでもないような物事を綴るミニエッセイの場です。
茶の間2026/07/26

好奇心発動に必要なエネルギー

2026/06/12

己について、「何にでも興味を持つほうか?」と考えると「そうだ」と思うけれども、「好奇心が強いほうか?」と考えると「いいえ」と思う。矛盾しているような気がして少し考えていた。

多分、正確に表現すると「森羅万象に価値を感じる」「しかしそれらを自分が知るということにそれほど熱意はない」ということなんだろう。
実際に好奇心がないのかと考えると、おそらく平均よりはあるのだと思う。価値を感じているものの規模(万物)に対して自分のエネルギーがあまりに少ないので、実質ゼロに等しいというふうに感じている。好奇心が特別強いほうではないにしても「普通くらいはある」とは言っていい気はする。


2026/07/25

自分は知的好奇心が十分でない、という感覚がずっとあって実際全く博識にはなっていかない。「学校の勉強」は得意だったが「(スキル的でない)大人の勉強」は捗らない。そのことについて先日は上のように考え、「自分のエネルギーがあまりに少ない」ということが導かれた。

で、最近読書の仕方が変わって(単に量や速さということではなく)、それは最近やっている「読書メモを猛然と書き写す」の延長で、どけどけどけーいと言わんばかりの加速度を生じた結果、読んでいる間の勢いが本1冊で尽きずに参考文献を入手して読み始めるまで届くようになり、「エネルギーが足りるようになった」という感じがある。
それまでは、1冊読み切るのがまず大変で、そこから参考文献リストを渡り歩くなんていうことはできなかった。疲れたから他の種類のものにするか、そもそも本を読むのを休みたいという状態だった。

自分の「知的好奇心がない感じ」というのは、いつも「そんなエネルギー(ないしは熱意)は無い」という感覚だった。興味がないわけではないし、元気なら調べたいとは思うが、億劫だから動かない。
そのエネルギーのなさを生来のものだと思っていた。よほど興味が強くないと自分からは調べない、そういう脳なのだろうと。確かにその傾向というのは今も否めない。根っからフットワークが軽い人のようにはできない感じがある。しかしながら、「億劫に感じる」という部分に何かしらの形で推力を加えられれば、関心の多寡は関係なく動けるらしいことがわかった。「ノートに何かを書きまくる」と「知的好奇心を持つ」とは直接関係がないのに、その間に因果があるかのような結果が出る。
実際、新たに興味を持ったジャンルについて、勢いで詳しいデータベースを作ったりすることがある。その勢いはずっとは続かないが、必ずしも対象への興味が減ったということは意味しない。はじめは「データベースをどう設計するか」というものづくり欲の方を刺激して億劫さが吹き飛ばされたことによって動くことができているわけである。つまり自分の行動力は好奇心とはあまり関係がない。

どうやったら億劫さが吹き飛ぶのかというのがまだ自分でよくわかっていない。とりあえず何かの方法を考えようとしている時は軽快になっている。しかし方法を定めてしまうとたちまちテンションは下がっていく。
今回の「ノートを書き写しまくる」というのは思いがけない効果を生んでいるのだが、そもそも「ノートを書き写しまくる」ということ自体が以前は億劫極まりないことだったわけで、そこを打破できたのがまず自分のことながら不思議である。「不揃いな読書メモの気持ち悪さ」があまりにも大きかったこと、「使い道のないノートを大量に余している」ということの不本意な感じ(ノートを大量に入手したことで新たに生じた状況)、そしてこのごろ高まっている「読書ノートは人生の財産になるべき」という思い、それらが噛み合ったことで「ええい! やってしまえ!」というスイッチが入った。
やっていることについて「財産になる」という確信を持っていることは大きいだろう。今は紙屑寸前のメモが、B5大学ノートに書き写せば何十年先でも残る財産になる、と思えばガリガリと休みなく書いていられる。これは人に言われてなるほどと思っている程度の納得では足りない。自分の人生を具体的にイメージして、「これは財産だ」とはっきり感じるくらいの強さでなければいけない。私は「老いたとき財産になり得るのは紙のノートだ」という結論を出したことによって、利便性の如何を超えて「紙のノート=財産」という結びつきが強固になった。

つまり、自分が感じている「知的好奇心がない」という問題は解決として知的好奇心自体の増幅的なことを考えるのではなく、むしろ知的好奇心はあるにもかかわらずそれだけでは動かない性向に対処する必要があるのであって、検討すべきは例えば「財産」の作り方なのだった。
この「財産」というのがくせもので、多分いわゆる「知的好奇心が旺盛な人」は自分の頭に知が加わることがすなわち財産であると認識するのだと思うが、私の場合は自分の脳に全く信用がないので、知っただけでは財産にカウントできない。すぐあやふやになるし、じきに忘れてしまう。自分の記憶はスカスカだという気持ちがものすごく強くある。(そのことは前に忘却に伴う恐怖/私が欲しい第二の脳で書いた。)
なので物理的に作っていくべきなのだが、その設計にずっと失敗し続けていた。どんな情報がどんな形をしているべきかということに決着がついたのは最近のことで、そこにけりがつかないことには多分何をどうやっても駄目だったと思う。

適切な設計によって紙に書いた情報が財産として成立し、それが自分を動かすエネルギーを生み、そしてやっと(実際は元々あった)知的好奇心に燃料の供給が届くようになったのだ。