茶の間とは:個人的な所感、なんでもないような物事を綴るミニエッセイの場です。
茶の間2026/07/17

「仲間意識」を欠いたまま生きている

「仲間意識」というものは、社会性のある動物ならばおそらくごく基本的に備えているのであろう。
それがどんなものでどういう意義があるのかは理解している。
しかしながら、自分にはそれがどうも十分に備わっていない感じがある。


同じ学校出身であることや、同じ組織に属すること、同じ地域に暮らすことが、非常に強い絆として働いている集団というのを時たま見る。
私はそういったことを理由に仲間意識を感じたことは今のところない。同じ学校だろうが別の学校だろうがどうでもいいし、同窓会に興味はないし、かなりたくさんいる「偉人」の先輩方との精神的繋がりも特に感じない。
誰かと同じ組織にいるのはたまたまで、同じ地域に暮らしているのもたまたまだ。互いに最低限円滑に生きていかれればそれでよく、殊更親しみを表現する気にはならない。
同じほにゃららであるという理由で妙に親しげにしてくるのを見ると、何か思惑があるのだろうかと思う。実際、ある意味では思惑的なものがあったことが多い。例えば、自分が独りになりたくないだけとか。相手は私でなくてもいい。

友だちあるいは親友という感覚はある。あるが、日常的に遊ぶということはない。自分にとって深い話ができる相手がそのような関係性にある存在と私は認識しており、深い話の必要が双方になければ会わないし話さない。話したいことがあると言われればいつでもいくらでも付き合う。相手との間に信頼関係はあるが、社会性はない。
同好の士という感覚もある。あるが、同じものを好きというだけでは別に心を許す理由にはならないし、「仲間意識」は正直無い。好きなものを話している間は気が合っているかのようだが、それ以上のものではない。経験上、他の話をして良い方向に向かう可能性は半分もない(ので、しない)。

仲間意識という感覚が一切ないのかというと、実はある。あるが、私の考える「仲間」とは、「同じ性質を持つ人間」のことだ。同じ帰属や同じ趣味ではない。
同じ性質とは何かというのは、前に私という不思議な生き物を観察することについての諸々でだいたい書いた。

同じ性質を持つ人間以外は、等しく「特に仲間ではない人々」だ。それは敵という意味ではない。
そもそも、特に帰属に仲間意識を強く持つという時、それ以外を敵と見なす感覚がうっすら内包されている感じがある。はっきりと線を引いて、内側は味方で贔屓をし、外側は敵でなるべく得をさせない。
それがまずよくわからない。同じ帰属にあるというだけで自分以外の誰かを得させたがるのもわからないし、そうでないというだけで損させたがるのもわからない。
わからないので、当たり前にそういう感じの動きをするということができない。そのことは社会での生きにくさをもたらしている。うまくできないということも生きにくいが、他の人が快を感じているらしいことで全く快を得ないがために、ただただ一方的に気力を使うだけになることになるのが非常に生きにくい。私は何も得をしない。

ちなみに「推し」という感覚はどうかというと、三分の一くらいある。「推し活」には興味がない。別にライブに行きたいとも思わないし、「同担」と共感し合いたいとも思わない。「推し」からの認知にも関心はない。というかされない方がいい。同一の世界にいると実感することに意義を全く感じない。
じゃあ三分の一とはなんなのかと言えば、或る存在に対して「在る」ということを奇跡的に感じ、有難いと思い、この先も健やかに生きて活躍することを祈る気持ちである。その気持ちの出どころは、私の場合は何らかの意味での「同じ性質」にある。自分とその人が似ていると言ってしまうのはかなり無理があるが(相手のほうが圧倒的に素晴らしく有難い存在と思うから「推し」なのである)、何かしらの「同じ性質」を持っていることによってその存在が自分にとっての希望になるわけである。

私は他人に対して興味がないわけではない。しかしほとんどの他人について自分と関わりはないと感じる。それは社会的動物である種の一個体としては「変」なのだろう。
でも生まれ持ってのものであろうし、今更どうにかなることではない。
それに、「変」な人は結構いるということを、今の私はもう知っている。