本とPodcastと目次と索引
ラジオやPodcastは知的生産の産物だが、資料として扱うのにはいろいろと苦労がある。それらを聴いたときにどういう工夫ができればよいだろうか。
話題を探し当てにくい問題
どこからどこまでが認知特性的な能力に左右されるものなのかちょっとわからないのだが、聴くものというのはまず内容の位置を有機的に認識するのが難しい。本で言えば「何ページくらいにあった」という情報である。
どちらかといえば最初の方、あるいは最後の方というのを覚えていることもあるが、本ほどは明確にならない。聴いている間に今全体のうちのどのあたりかというのを意識していない。一回に全部聴いたならまだしも、細切れで聴いたりしたらもう全くわからない。
検索が難しいということもある。今はAIによって自動で文字起こしができ、その精度もまずまずだが、完全に再現されている保証がないと資料として信頼性を欠く。
そもそも「話の流れ」は検索では見つけにくい。大体こんな感じの話だったはずというのはわかっていても、それが如何なる言葉を用いてなされていたかは定かではない。固有名詞など明確にキーになる語がない話だと検索では一向に辿り着けない可能性がある。
とはいえ、「こんな感じの話」を探し出しにくいのは文献でも同じである。しかし聴くものほどの苦労はない。本ならパラパラ見るということができること、視覚情報で「こんなレイアウトのページにあったはず」ということをキーにできることがまずある。
それだけではない。本の武器は「目次」があることだ。どのくらいの位置にあったかを忘れていても、目次を見れば「ここではない、こっちも違うだろう」ということを判断でき、あり得る場所を絞り込むことができる。
もしもキーワードが明確ならば、「索引」もまた位置探しの助けになる。
聴く類のものが困るのは、後から確認したい時にまた聴き直さなければならないことで、そうする必要に迫られるのは目印が乏しいからである。
これはまた、長い記事にも言えることである。聴くものほどではないにしろ、見出しがないとどこに何の話題があるのかを探すのが一苦労だ。時折五千字を超えるような記事を書きながら目次を設置しない人間が言うのはどうかとは自分でも思うが(見出しはなるべく置くようにした)、やはり中間セーブ的なポイントがあった方がありがたい。
話を戻すと、つまり聴くものにも目次と索引があるのが理想ということだ。
AIの文字起こし、要約、目次生成
LISTENというサービスがある。登録されているPodcastの内容を自動で文字起こしし、目次と要約まで頭に付けてくれるものだ。個人的に、これによってPodcastを聴いて糧にするということが現実的になったので(認知特性上、聴くものの扱いが苦手なのである)、たいへんありがたく思っている。
しかしこれで全てが解決したわけではない。まず、文字起こしは人が書いた文章のようには読めない。精度は最初の頃よりだいぶ改善したような気がするが、現状LISTENの文字起こしだと誰の発言かというのがわからない。「スピーカー1」などとついてはいるが、ほとんど意味をなしていない。
更に、どうしても表記揺れが発生する。AIが単語として認識できないような語も多々あるので、そういうものはそのままだと検索困難である。つまり資料として不完全である。(それでも相当に助かっているけれども。)
加えて目次と要約があまり役に立たない。サマリーはXのニュースのように事実関係が間違っていることがしばしばあり、また話の強弱が無視されているので長い文章の割に内容が大抵スカスカである。話者の温度が消え去っているから雰囲気がまるでわからない。
目次も微妙である。聴いていて感じる話題の区切りと自動生成の目次の区切りが合っていないし、多くは抽象的すぎる。「○○と□□」型の目次だと話者の認識がそこから見えてこないから、結局聞き直さないとどういう話だったか思い出せない。
この話のどこが重要か、というのは人間の頭を通すほかないのだろう。そもそも人間もひとりひとり「ここが重要」と感じるポイントが異なるのだし、そんな曖昧な仕事をAIが的確にやれるはずもない。
作るべきは目次と索引
今のところ、「重要な話題のピックアップ」の仕事は人力でやるしかなさそうだ。
YouTubeでは「よく再生されている箇所」というのを表示してくれ、なかなか画期的な仕組みである。その部分がどういう内容かはそれだけではわからないが、文字起こしとセットで見ればかなり補完できる。
残念ながらラジオやPodcastにYouTube的機能が備わっているわけではないので、やはり人間による工夫がまだ必要になる。
最初の項で確かめたことをもう一度確認すると、あってほしいのはまず目次と索引である。目次と索引なのである。大事なことだから二回言ったが、何が言いたいかというと、「自分にとって面白かったポイントの抜き出し」だけでは足りないということだ。
Podcastのノートを作ったとき、有意義なことをしているはずなのに違和感が拭えない感覚があった。何か根本的なものを欠いている、あるいは何か整理が足りていないような感触である。
ノートを書こうとすると、「文脈の把握」と「個人的な関心に基づいた切り取り」が発生する。これの境界が曖昧だとノートがうまく整理されない。時系列順に大事そうなことが並んではいるが雑然とした印象が拭えない、ということになったりする。
読書ノートが「自分が面白いと思ったこと」だけで良いのは、本自体が目次を持ち参照も容易でありわざわざ自力で文脈を記録する必要がないからである。頭の整理のために大まかに書き出してみることはあっても、話題全部を書き並べることはない。
自分のためのノートの形
個人で「資料化」の作業をどこまでやるのかという問題はあるのだが、どうせ聴くのに時間がかかるのなら、それが後から丸ごと無に帰すことのないように、ちょっとだけ手間をかけて目次づくりをした方が良さそうだ。
それをやらないで後でさっぱり思い出せなくなったとしたら、最初に聴いた時間もまあまあ無駄である。特に聴覚の認知特性がポンコツな私のような人間は適切に努力をした方がいい。
この気づきで安心したこともある。ノートの取り方が定まった点である。文脈を曖昧に記録していた時はなんとも言いようのないもやもやに包まれていたが、目次と索引さえ作っておけば、文脈保存のためにそれ以上中途半端な引用を持ってきたりする必要がなくなるわけである。やらなくていいことが明らかになった。
目次は「どんな話か」が分かればいいので、あんまり抽象的だと困るにしてもその話題全体の流れを要約する必要はない。そして目次だけ見ればまあそこでどんな流れでどんな結論が出されたのだったかは思い出せるだろう。安心して「自分にとって面白かったポイント」に集中できる。
と言ってもひょいひょいやれる種の作業ではないので、こう結論を出しながらも実践に繋がらない可能性もあるのだが、今後「よし記録しよう」と思った時に迷走を避けられるなら、ここで考えておいたことは無意味ではないだろう。