記事2026/08/25

文章が書けなかった苦しみまとめ

 Blaugust(ブローガスト)というお祭りのこともあってか文章を書ける書けないという話を見かけるので、この頃は色々考えたり自分で書いたりしてみた。書けなさについても書いているが、「そうは言っても書けとるやん」というふうに思われることももしかしたらなきにしもあらずかもしれないと思ったので、ちょいと過去を振り返ってみよう。
 例によってどこにも需要がなさそうな自分語りの記事である。

2019年

 もっと前から書いては消えを繰り返していたが、「のらてつ」として投稿し始めたのが2019年のことだ。当初はnoteに投稿していて、最初から投稿しにくさに悩まされていた。

「人と同じ発想を後から投稿してしまった」ということが起こることをとても恐ろしく思っている。(「書いて披露する」ことの不安、n番煎じになる勇気

文章を書いて発表するということには色々なハードルがあると思いますが、私の中で足枷になってきたもののひとつが「大事なことは一発で全部伝えなきゃ」という気持ちです。(一発で決まればかっこいいけど大事なことは何度書いてもいいよね

それにひきかえ、私はそういう日記的なものがとても苦手です。昔から下手くそで、学校の宿題などで日記を書かされると何を書いたらいいかわかりませんでした。他の子たちと同じような密度・濃度で日々を過ごしているはずなのに、みんなはそれらから何かを感じられて、私はいまいち感じられない、そういう感覚がずっとありました。(日記を書くのが下手、ということ

 ちなみにこの年20本も書いていないと思う。このサイトに残っているのは僅かに9本である。

2020年

 2020年はなお酷い。4月しか書いていないようだ。書けなかった理由の第一は生活が大変な状態だったからだが、書けたとしても書くたびに違和感が拭えなかった。当時は文体に悩んでいた。

そして何より、自分が読んでいて「ああ、いいなあ」と思うのは、常体で、且つ慎重に書かれた、信念や人生の滲み出る文章なので、自分もそのような形を目指したいという気持ちになりました。(です・ます調は距離が近過ぎるのかもしれない

 ここで今の自分のノリが生まれたということになる。それでも投稿という行為に対する躊躇いはまだ残っていた。

自分が何かを書き留めたいと思っても、もっとすごい人に怒られたり見下されたりするかもしれない、なんていう要らぬ不安(つまり自分が生み出した幻影)に苛まれて、自分の感じたことはあくまで自分の中だけのものとして半径15センチの世界に留まってしまう。(誰かにとっての「今更」は誰かにとっての「今」だ、という今更のこと

 自意識過剰、というか、何か言われたらそれと戦う気力はないという状態にあったのが思い出される。自分を守る力がないので他人が怖かったのである。

2021年

 投稿の場をnoteから自分のブログ(当時はBlogger)に移し、ツールの使い方の話をし始めたことでやっとある程度継続的に書けるようになった。「アウトライナーの使い方ド下手問題」が今ののらてつの原点と言っても過言ではない。
 しかしそこに至る前には苦しみがあった。何日か前にも書いた「自分が嫌い」の話と通ずる(自分が嫌い問題/自分らしさ/自分くささ)。

何度試みても一所に定住できなかったのは、自分が書いて投稿したものが、結局のところ好きではなかったからだ。書けば書くほど、自分が嫌いになっていく。無理をして生きているのがわかる。年月を置いて振り返るまでもなく、自分自身が痛々しいとすぐに気づいてしまう。しばらく誤魔化して書き続けてみるも、やがて耐えられなくなり全てを消し去ることになる。それは人に何かを言われるまでもないことで、第一誰かに「痛い」と思われるほど読まれてもいなかっただろう。他者の目など関係なく、自分が自分の存在を許せないのだから、自分の痕跡を残すという行為に耐えられるはずもない。(Restart

 10月にはブログの書き方ド下手問題シリーズを書いている。これについては別の記事で振り返る。最初の部分だけ載せておこう。

ブログを書くことについて延々迷走している。迷走していない瞬間がないと言っても過言ではない。
と言っても私の場合は投稿をさっぱりしていないので(半年で二十本程度)、方向性の混乱が読み手に伝わっているわけではないだろう。方向性を感じるほど継続的に書いていないからだ。アウトプットに至る前の空間で迷走していて、書けないまま人知れずうろうろと彷徨っている。(ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

 ブログを更新できない理由があれやこれやと現れて、このシリーズで格闘したことが私にとってターニングポイントになったわけだが、その直前の心境は以下のようなものだった。

ド下手問題の中で何度か繰り返しているが、この一連を書き始める前は自分が何を書いたらいいのかもよくわかっていなかった。このブログでは変な無理はしていないが、それでも自分で書いた記事に自分でピンと来たり来なかったりが続いていた。他の場所に寄せる原稿と違って、個人ブログでは自分が書きたいことを書けばいいだけのはずなのだが、それがまず自分でわからないのである。(ブログ日誌:ブログに書くこと・書かないことを整理する

 ただ、書く内容さえ浮かべば、文章を書くということ自体は苦労しないタイプではある。自分の思念をそのまま描写することはここまでの間に別の形で相当訓練してきていたからである。

ブログの投稿には本当に苦戦したのだが、一方で、文章を書くことそのものは(客観的な上手い下手はともかくとして)それほど苦手ではないようである。とりあえず、自分の中では他のあらゆる表現手段より文を書くのが自然で苦労のない選択だ。(思った通りに書くということ

 しかし書くネタがあっても「書く」を続けられず息切れしてしまうという問題もあった。何かを書き終えた時に脱力しすぎてしまって次に移れないのだ。

ところで、書くということに於いて大事なのは書いていない時間である。ということを常々自分への戒めとして唱えているのだが、なかなか難しい。文章を書くことを含め「表現」というのは、工程のどの段階にあっても「着想を得る」という偶然に依存するところがあるため、常時着想を得られる土壌を用意しておかなくてはならない。潜在意識の力を借りるのである。予め「ブログを書くにはどうしたらいいだろうか」と自分に問うていればこそ、パンを齧りながらはたと「必ず結論を示そうとするのが間違っているのだ」と思い至ることにもなる。(ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと

 最近はあまり息切れということは感じないかもしれない。どうだろう。

2022年

 ド下手問題を経て軌道に乗るかと思いきや、それほど書けていない。ツール開発ばかりやっていたからだろう。

 ところで「茶の間」という領域をこのサイトに作っているが、元々はブログと別に、避難所的に作った場所だった(→のらてつの茶の間)。知り合い以外に読まれるのが怖いというような気持ちがあった。

数字で言えば可能性はほぼゼロに等しいとしても、いつ何の咎で日本中から責められるかわからないのは恐ろしい。日本中まで炎上しなくたって、どこの誰かもわからない人間に突然謎の憤怒をぶつけられたらたまったものではない。(のらてつの茶の間とは

 自分の文章は自己開示を基本としているから、全く理解してくれない感じの他人の出現をとにかく恐れていたのである。怒られたことは今に至るまでないが、何も伝わっていないような反応は実際見たことがある。

 当時ホットだった悩みはもうひとつあって、SNSに流してしまうせいでブログにならないということがあった。

常々、Twitter(あるいはMastodon)に考えを放流してしまってそのままになっていることが気になっている。(「とりあえずブログに」の定着を試みる

 これは今もあまり解決できていないかもしれない。

2023年

 この年は、数で言えばかなり書いているのだが、終始迷走していた感がある。

一年の間ずっとNTA-DIYに取り組んできて、多くのことを習得してきましたが、これまでその学びについてあまり書き残してきませんでした。(NTA-DIY:まえがき

 「NTA-DIY」というのは「ノートテイキングアプリのDIY」の略(造語)だが、2022年の間それに一生懸命取り組んでいたにも関わらず記事にできなかったことを後悔していた。その理由をこの記事で整理し、振り返る形でなら書けるだろうと踏んでシリーズ記事として始めたのだが、まあ率直に言って失敗に終わった。ただ悩みを増やしただけである。2月に始めて、7月でほぼやめてしまった。

 途中で急に休みを挟んだりもした。

一ヶ月と少し、「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎になっている。(拾い直しの旅

最近ブログを全然更新していない。端から無理なくらい多忙を極めていたならば特に気にはならないが、書こうと思えば書けたはずだという気持ちがあるのでなんとなく不本意に感じている。書こうと思えば書けたはずなのだ。しかしエンジンはかからなかったし、足はアクセルから遠く離れていた。漠然とやる気がなかった。(ブログの書き方ド下手問題番外編~漠然と無気力な件

 しかしこの停滞が結果的に自分を回復させた。

よく聞く言い回しで表現すると、「肩の力が抜けた」ということになるのだと思う。肩の力が抜けるってなんやねんという気持ちも無きにしもあらずだが、今の感覚を表現するならば、なんというか、深呼吸をしてふーっと息を吐く、その吐く時の脱力の勢いで言葉をすーっと出していくという感じがしている。(なぜか文章を書くのが楽になった

 そもそも書けないと苦しいのはなぜか。自分にある種の欲があるからである。

正直に言うならば、私はとにかく書き続けられる人間になりたいと思っていて、長年「そうなれるはずだが何かに足を引っ張られている」と感じていた。つまり書く能力自体がないのではないと信じていた。その感覚は正しかったと自分に示したいという気持ちがある。(際限なく書けることを自分に示したい

 こういう思いがある一方で、かつては書くということと縁遠かった。

自分を振り返ると、昔はあまり書くことが好きじゃなかったなと思う。文章を書いていた記憶があまりない。ちゃんと日記とか書いていたらどんなに良かったかと今は大変に後悔している。(書くことは自分を世界に出現させること

 日記が下手というのは2019年にも書いている。(その部分を上で引用している。)

 この年の最後の方は茶の間をせっせと更新していた。それはよかったが、普通のブログ記事が捗らず、年末には再びブログの書き方ド下手問題に取り組むことになった。

2024年

 書けないということには投稿の仕組みの良し悪しも関係する。

現在メインのブログはBloggerに投稿しているわけだけれど、BloggerにしろnoteにしろSubstackにしろ、最終稿がサイトにあって、更新するなら手動の作業、というのをかなり億劫に感じている。(最終稿が投稿サイトに依存していると更新が億劫

 考えることが書くことに貢献しないということもある。

一人で考えていると、頭の中には「まだ言えない」ようなことばかりが渦巻き、うまく出力に繋げられない。(一人で考えていると記事ができない

 ちなみに2024年はちょっと実生活で色々あり、総じて精神状態が悪く、記事も自分に閉じこもる種の不親切なものばかりになっていた。投稿が途絶えた時期もあった。
 それについては、年末あたりにCapacitiesを使うようになってその話をしているうちに回復に至った。

2025年

 2025年は投稿場所も整い、初めて何も困らずコンスタントに書けた――と言えるかと思いきや、下半期に急ブレーキを踏むことになった。

投稿が途絶えたきっかけはちょっとショックというか、悲しいこと、ヤケになってしまうことがあったためで(おおごとではないのでご心配なく)、そこから復帰することなく別のモードに入り込んでしまい、またツールの環境もすっかり変わってしまったことでnoteの連載をやる意義もなくなったりしていて、そのように色々重なったのが下半期でした。(2025年の振り返り

 そういうこともある。

2026年

 精神的動揺などは昨年中に収まっていたが、今年はブローガストまでほとんど投稿していなかった。けれども書けなくて悩んでいたわけではない。違う形の書き物に取り組んでいた。
 ブローガストに参加するか~と決めて、正直月に15本とか、ましてや30本とか、ちょっと無理じゃないかなという気持ちでいた。ネタさえあれば書けるとは思ったが、ネタを用意する力がないかもしれないという不安があった。
 実際やってみると思ったより書けた。上半期に書こうと思いつつ書いていなかった話がいくつかあったというのもあるので決して「余裕余裕」という感じではないが、そこまで苦労はしていない。


 今比較的自由な感じで書けてはいるが、この自由さを手に入れたのはごく最近だというのが振り返ってみるとよく分かる。
 無理して書いていることもあったし、そうやっているうちに力尽きて何ヶ月もいなくなることもあった。うまく書けていないということを、一体何回書くのかというくらいに書いていた。

 割とありとあらゆる意味で書けなさと格闘してきたので、書くことについてのだいたいの苦悩については身に覚えがあるなと感じる。文を書くこと自体はどちらかと言えば得意な方に思えるが、それも後天的なものである。
 昔は自分の考えがなかったから、例えば政治などに関して何を聞かれても「どちらとも言えない」しか答えられなかった。自己不在では双方にそれなりの道理がある物事について判断することは不可能である。これが大変なコンプレックスになっていたので、Twitterを使い始めてひたすらに自分の思いを的確にまとめる練習をし続けた。それが何万ツイートだかになったので、均せば100字なるならずだとしても百万字はゆうに超える字数を費やした。結果的に文を書くことに苦労しなくなった。

 しかし「文を書ける」は「文章を書ける」とイコールではない。文章を書くということには単に「言葉を紡げるかどうか」だけではない色々な悩みがある。それを知るのは容易でなかったし、結局「のらてつ」になってからでも6年7年かかっている。
 悩みは個人的且つ多様なので、他の人の話を聞いたり「文章術」を学ぼうとしたりすることはあまり意味をなさなかった。他の人が言っていることが自分の悩みと同じであったとしても、そうであることを理解できるのはその悩みを解決してからであったりするのである。
 書けなさについて言葉にするのは、書けないことの言い訳を探して喋っているかのような気もした。しかし今振り返ってみてもそれらが捏ち上げの言い訳であったとは思わない。実際にその難しさに直面していたのだし、他の人も同じ難しさに直面して書けなくなっているのを見かける。
 言い訳に見えたとすればその人は「書けない」がわからないほど書く才能に恵まれているということかもしれないし、逆に「自分では書いていない」から批評家を気取っていられるのかもしれないが、いずれにせよその人が直面していない現実が他の人の前にはある。

 文章を書くことは大変だ。もっとも、そうでなければそれが職業として成り立つはずもないのだろう。