記事2026/08/14

自分が嫌い問題/自分らしさ/自分くささ

 こちらを読みました。

 倉下さんの記事の後半の方で、

「自分が分からない」のに「自分が嫌い」

という理路に対して、

「自分が分からない」から「自分が嫌い」

という理路を提案されていました。このことに関連して、盛大に自分語りをしてみようと思います。泡沫さんと何か共通する部分があるかもしれませんし、もしかしたら全く違っているかもしれません。

「自分が嫌い」問題

 まず私自身の感覚を明らかにしておくと、「自分が嫌い」というのはよくわかります。泡沫さんと同じ意味でそう思ってきたかどうかは確かめる術がありませんが、例えば自分の価値観に於いて自分自身が然るべき基準を満たしていないとか、自分が社会的に要請される何かを十分に備えていない感じがするとか、自分が自分の思い通りに動かないことに不快感があるとか、そもそも人類が嫌いだからそれに含まれる自分も嫌いであるとか、様々あり得ますが、とりあえず何かしらの意味で己の様子または存在自体が不適切に感じているということだろうと思います。
 では今も「自分が嫌い」かというと、今でも一部は嫌いですが全てを嫌いとは言えないというくらいになりました。嫌いというか、「不本意」です。昔は生理的に自己を拒絶していましたが、今は個別の要素について「こうじゃなきゃいいのにな」と思っている程度です。不本意な要素は山のようにありますが、深刻度が変わりました。自分が(個性を持った存在として)ここにいてもまあいいだろうと思っています。

 生理的に自己を拒絶していた時、それはまさに「自分が嫌い」という心境でしたが、「自分の全てが好きではない」と同義であったかというと甚だ疑問です。自分を拒絶しているのでそもそも全てを知りませんでしたし(今も全ては知りませんし知り得ません)、自分を拒絶していることを正しいと思いたいという心理が働いているので自分の中に「文句なしに好ましい部分」なんかがあっちゃあ困るというわけで、悪くなさそうな部分についても、内心なかなか悪くないんじゃないかと思いつつ、自らを一刀両断する理屈は常に用意している状態でした。
 で、このように「見ないようにしている」部分、そして「好ましいという評価を拒否している」部分というのがあるので、他人から好意的な評価をされた時には面倒なことになります。否定的な評価の方がある意味楽で、その内容が合っていようが合っていまいが、自分が自分を否定しているなら「とりあえず自分は否定されるべき様子/存在である」ということは簡単に認められるわけで、つまるところ何を言われたのかはどうでもよくその否定的評価を口実に自己の拒絶を継続するまでです。
 しかし好意的な評価をされた場合、自分の知らない自分を他者から描写されることになります。謎の視点で覗き込まれる状態なので、誰の目にどのように映り得るのかということを事前に想像できず、それに対して何も備えができません。そして同時に、「認識不能な肯定要素」があるということは「認識不能な否定要素」も当然あるはずだということを知らしめられます。自分のことははなから嫌いなわけですが、自分の知らない「否定すべき要素」が他人に筒抜けになっているかもしれない状態は私には耐え難く感じられました。
 これが泡沫さんの仰る次のことと似ているのかどうかはわかりません。

「あなたらしいね」なんてセリフがありますが、これは二人称が使われている通り他者から自分に向けて言われるものです。そして何故か他者は、私が分からない「私らしさ」を知っている。端的にこわいですよね。

 私が自分を拒絶している時、自分固有の何かを狙って拒絶していたわけではありません。むしろ、他の人間と共通点となり得る部分を根拠に拒絶しています。私の拒絶は劣等感・無価値感・異物感によるもので、それは他者集団の中に自分を置こうとした時に他者から生まれるであろう否定的評価を想定して発生するものです。他人が否定的に評価する可能性があるということは、つまり他人と共通しているということです。
 自分の真にオリジナルな部分というのは、他人には基本的に理解不能であり、すなわち評価不能です。他人が評価不能な部分は、自分自身も「評価」は不能であり(なぜなら物差しが存在しないからです)、したがって拒絶することも難しいのです。
 ちなみに「評価不能」と言いましたが、「面白いね」「なんかいいね」と言うことはできます。それは「評価不能だね」を肯定的に言っているものです。否定的に言えば「ようわからん」「ついていけない」「なんか不気味」などになるでしょう。それらは評価風の文言ですが、評価として成立はしていないように思います。

「私らしさ」と自己開示について

 ここまで「自分が嫌い」の話をしてきました。「私らしさ」についても自分語りを展開してしまいましょう。
 最近はあなたらしいねということ自体をあまり言われないので昔の話になりますが、昔「あなたらしいね」「あなたってこうだよね」というようなことを言われた時には鳥肌が立つ感じがありました。そのように評価し得るほどその人に自分を見せた覚えはなく、「あなたらしいね」の中身が合っていても合っていなくても不気味でした。合っていれば自分が実は裸で生きているのかもしれないという恐ろしさがあり、合っていないならろくに知りもしないのに何かの物差しで「私らしさ」を捏ち上げてくるのが気持ち悪いわけです。実際言われたのは大体合っていないものでしたが、それらが「結局合っていなかった」と確かめられたのはだいぶ経ってからのことです。
 この不気味さというのはなぜ生じるのでしょうか。後になって思いましたが、私の場合にはその理由はただひとつ、「私が他者に十分に自己を見せていないから」です。自己開示していないので見透かされても気持ち悪いし、「ヒントが少ない中でその人なりの解釈を試みた人」による捏造が多発して気持ち悪いということにもなります。(なお自己開示しているにもかかわらず解釈を誤ってくる人がいる場合は、それは不気味なのではなく、理解力が足りていない、ないしは相性が悪いというだけのことです。)
 のらてつとしての活動で言えば、もはや全てが自己開示でできていると言っても過言ではないので、自分が開示している部分について「のらてつらしさ」を感じて「のらてつさんらしいですね」と思われるのは歓迎です。しかし、自己開示したつもりのない部分について全くの憶測で何か言われたらウエッと思う可能性はあります。

 自己開示をするようになったのは、「自分が嫌い」から脱却し始めた頃と記憶しています。まだ「自分が嫌い」の状態ではありましたが、自分がその先生きていくために(自分で終わらせないために)そこから抜けなければいけないと強く思うようになったのです。ちょうどよくTwitterというものが登場したので自己開示が簡単になりました。
 とはいえ、いきなり自分語りをし始めたわけではありません。ちなみにブログ文化というものにも実はほとんどタッチしていません。私がはじめTwitterで語っていたのは何かに対する解釈と物語です。「私はこれはこういうことだったのだと考える」「私はこのことについてこう思い描く」ということを表現するようになりました。それが受け入れられていくと、自分がそれをそう解釈する理由というのを考えて言葉にするようになっていきました。それは自分の個性であり、自分固有の歴史の開陳に他なりません。それを掘っていけば必然的に自分語りになります。
 そこに「面白さ」を見出したことで、私は自己開示を元に「面白さ」を生成する道を見出し、今このように恥ずかしげもなく自分語りをしています。これに伴って「自分が嫌い」という感覚は薄れていきました。(これゆえに、私は「面白さ」を生成しない自己開示には意味を見出していません。でも別に、他の人がどう自己開示しても何も思いません。自己開示に見せかけた自己開示ではない何かを見たらそっとブラウザバックします。)

 自己開示と自分語りを曖昧に表現しましたが、自己開示と自分語りはイコールではないでしょう。自分について語っていれば自分語りというわけで、必ずしも自己開示をなしているわけではありません。逆に自己開示というのは自分について語っている時だけなされるのではなく、何かについて正直に語るならばそれが自己開示となります。

創造と個性について

 この一連の話題の発端は一応私のポストにあったということになるかと思います。何を書いたのか正確なところを忘れたので探して持ってきましょう。

真剣に自己分析をしていたんだけれど、思うに「創造に興味があるが、表現にはさして興味がない」ような気がする。これがなんか、己に対する一部の勘違いと「自由」を感じる上でのままならなさを生んでいるような。(2026/06/05)

創造をしたいが、表現を伴う必要があるとなると困ってしまい、大変なフラストレーションが溜まる。そして自分がうまくいった何かと同種の体験を再現しようとした時に、「前と同じ質の表現ができれば自分は嬉しいしうまくいく」と考えると失敗する。肝はそこではないのだと思う。(2026/06/05)

表現が伴わない創造というのは、自分がその場その場の気の赴くまま何かをしていたら、振り返るとそこに何かしらが生まれているというようなこと。「表現しようとする」ことなしに「表現されてしまっている」ようなのがよいのだと思う。(2026/06/05)

 文脈を明確にしないでふわっと喋ったことなので、おそらく読んだ人によってどういう話に見えるかがばらばらなものになってしまったかと思います。一応具体的に何を踏まえた話だったかを明らかにしておくと、だいたい以下のことです。

  1. Minecraftのような「自由に作るゲーム」について、「何かを作る」のは楽しいが、「どんなものを作りたいか」を考えるのは正直別に好きではない。
  2. 絵を描くということについて、「何かを描く」のは楽しいが、自分のうちから湧き出てくるものを表現する的なことには全くもって興味がない。
  3. 小説を書くということについて、「思い浮かんだことについて描写する」のは楽しいが、ファンタジーやSFのような形で自分で世界観を作り上げることには適性がない。

 このポストをしたあたりではMinecraftをちょっとやっていたので頭の中にはブロック遊びのイメージがありましたが、同種の体験の再現で苦しむことになるといったことは小説を書く場合にしばしば起こっていたことです。たまたま思い浮かんだ世界観を表現した時にそれがうまくいったとしても、自由に「自分の理想の世界はこれだ」的表現ができるわけではないわけです。
 ということで、記事内にもありました泡沫さんの引用ポストを受けて以下のようにお返ししました。

まさにそのように私も感じています。ただ何かを作るということをしたいだけなのに「どう作るのか」を考えた時に自己表現が要求されているような感覚になって勝手に息苦しくなってしまうのですよね。無邪気になれないというか。
創造は属人的なものゆえに自己表現と不可分ではあると思うのですが、「自己表現をしようとはしていない創造」というのはあると思っていて、仰る通り「受け取る他者」という前提を意識しない、例えば小さい子の積み木遊びのように無目的な創造の手段を考えていきたいところです。(2026/06/06)

 多分泡沫さんとは問題意識が違っていただろうと思いますが、自分の個性を使おうと思うか否かという意味ではある程度共通点はあったようには思います。
 私の場合は他者からのジャッジ以前に、自分の個性を芸術的に転化する能力がないところに悩みがありました。何を作るか、描くか、書くかを決めるにあたって、何かをそのまま再現するのでなければ、自分で考えてゴールを思い描かなくてはなりません。といって、何かをそのまま再現することには意味を感じられないというアンビバレントな思いがあります。新しいものを生み出したいが、表現したいものは別にないという状態です。しかし決めないことには具体的な「作る」「描く」「書く」ができないのでストレスになるわけです。

 新しいものを自力で作るには個性が必要です。その意味で、自分らしさというものを行使しないと新しいものは生み出せないということになるでしょう。なので創作するなら自分らしさは手段として使わざるを得ないものであって、切り離すことは原理的に不可能だと思います。
 しかしながら、創作物に「私くささ」が伴うかどうかは別の話です。例えば、さきほど小説の話をしましたが、複数同時に公開した時に知り合いに「どちらも同じ人が書いたものとは思わなかった」と言われたことがありました。私は特に没個性を目指していたわけではありませんが、話ごとに内容に合うように書き方を変えていたので、印象が違って見えたのでしょう。私はむしろ自分固有の文体のなさの方に悩んでいました。
 なので、技術的に「私くささ」を一切除去した創作をすること自体は可能だと思います。そうしてペンネームを変えれば気づかれずにやれるでしょう。創作に必要な「私らしさ」とは、私が存在しなければその作品も存在しないという意味に於いてであって、「私らしさ」の行使によって書いたものだからといって「あ~っ、やっぱりこの文章のらてつっぽいよね!」というようなことを必ず惹起するわけではないと思います。ですが、「私くささ」はうっかり出てしまうものであることは否めず、「私くささ」の除去にはそれなりの技術が必要になってくるようには思います。


 自分語りが長くなりました。ここまでお読みくださった方は(もしいらっしゃれば)たいへんお疲れ様でした。お読みいただきありがとうございます。