自分の過去記事を読む/自分の人生のストーリーをまともに覚えていないということ
紙の使い方の変化についてこれまで何度も書いている。紙のノート活用史タグで一連を追うことができるので、読書ノートについて書いたついでに過去の記事を自分で読み直してみた。
自分が自分について書いているものなので、自分で読む分にはとても面白い。というか、自分で読み直して面白いように書いていなければ、私にとっては自分について書く意味がない。
各記事にはその時点での「これまではこうだった」「そして今回こうすることにした」を細かく書いている。そう仔細に書かれても他人にはほとんどどうでもいいことだと思うが、自分自身の記録としてこれが非常に重要なものになっていることに気がついた。
三年前の記事を読んだ。確かに「あー、そういえばそうだったな」と思い出される。しかしその記事を読み返す前に昔のことを考えたとして、そこに書いている経緯を思い出せただろうかと考えると、まったくもって自信がない。では、私の脳はどういう過去であったということにしたのだろうか。
他の記事でも「前はこうだった」ということをその都度書いているわけだが、本当に前はそうだったのだろうか。いや違ったよ、と言ってくれる人はいないのだから、確かめる術はない。「今の認識では、前はこうだったような気がしている」に過ぎない。
さすがに一切存在しなかったことをでっち上げるまでの間違いはそうそうしないにしても(しかし無いとは言い切れない)、他にもっとあったはずの様々のことが欠けているというのは絶対にあるはずで、たまたま思い出せた断片同士をそれらしく繋げた時に事実と大きく異なる理路を作り上げてしまうことはあり得る。こういうことがあったから、その後のこれに繋がったのだろう、みたいな推測はかなりの確率で間違っているのではないだろうか。
全く嘘をついているつもりはないのだが、しかし事実と違っていることを平気で言っている可能性があるということだ。自分の記憶の方がもう書き換えられてしまっていて、自力で事実を辿ることができない。記録を確認できれば大抵「あーそうだった」と思うのだから記憶そのものが消滅したわけではないのだが、記憶の接続が日々の処理で切断され、芋づる式に引っ張り出すことが不可能になっている。そして私以外にその事実を知っている者はいない以上、誰も正誤を判定することができず、本当はどうだったのかは永久に闇の中だ。
ごくありふれた現象なわけだが、これはかなりおそろしい話である。だから記録が大事なのだ、というのは誰でもわかっていることだろうが、「自分自身についてのストーリーですら自分の記憶など当てにならない」ということは、「語り」というものをどう受け止めるべきかということに関わるわけである。体験を語っている人の語りをどう聞くべきか? 自伝をどう読むべきか? 研究者たちは慎重に「裏付け」を取るだろう。私たちは人の語り全てにいちいち裏を取るということはできないから、とりあえず「今のその人の視点ではそのようであったという印象なのだな」というところまでを事実として受け取り、妥当性を計算しながら自分なりの推測をしていくほかない。
なお当たり前のことだが、事実と異なるところがあったからといってその語りが無価値になるということではない。ただ、事実としての正確さは保証されないということである。
ブログを書くということには、まず書いている自分自身にとって重要な意味がある。正直に書いていればの話だが(あるいは、どこでどういう嘘をついたのかを全て覚えているならば)、その後どうやっても取り戻せない「その時点での認識」を、読むに堪える形で残すことができる。マメな人は日記の方が本当のことを細かく書けてよいかと思うが、ただ日記を書くのはしんどいという人も多いだろうし、日記だとあまりにも赤裸々過ぎて後で読むのが辛いという場合もあるだろう。ブログならば――黒歴史を生成してしまうことにさえ注意すれば――後々でも読み返すことが可能な形できちんと書くことがしやすい。人に読んでもらいたいとか自分はここにいると言いたいとか、そういう欲を味方につけて記録を残すのである。自分の自意識に呆れる日が来てしまうかもしれないが、そんなことより記録があることが大事だ。
ちなみに黒歴史については黒歴史を生まないための三つの禁でちょっと書いたりした。まあ読み返しは辛くないに越したことはない。悶え苦しむことのないように等身大で正直に書くのが一番だろう。
ブログまでいかなくても、Twitter系の短文投稿サービスを使うことはその意味で有効である。しかし文章としてそれなりのボリュームになるものをちゃんと書いたほうがより役に立つと思う。文章として成り立たせるために頭をひねることになるし、読み手のことを考えながら何かをきちんと言おうとすると、そのために埋めなければならない要素があれこれあることに気がつく。また、短文投稿では自分の発言が細切れになるため、発言ごとに文として成り立っていれば記述として何も問題がないことになってしまうが、数千字のひとまとまりの文章にしようとすると、自分の認識、自分が言おうとしていることに矛盾があることが炙り出されることもある。
思考は断片的である。それゆえに、意識的にそれをまとめて形を与え、ある範囲の全体像を確かめる作業をした方がいい。そして欠けている部分があるぞと気づくことによって、記録の精度は上がっていくのだ。
文章を書くのは大変だ。しかし何も書かなかった場合に失われていくものの大きさを思うと、時々でいいから頑張って書かねばという気持ちになるのである。
余談だが、以前ブログの書き方ド下手問題というシリーズとして「ブログをうまく書けない」という問題について考えて書き綴っていた。自分の書きづらさを打破するにはどうしたらいいのかを真剣に考えた記事群で、それによってブログ投稿における不自由さをほとんど払拭した。うまく書けないと感じている人は、まず「なぜ自分はうまく書けないと感じているのだろう」という記事を書いてみるのもひとつの手だろう。
初回:ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~
最新:ブログの書き方ド下手問題⑭~「後で続きを書く」送りにして結局書かない問題~