茶の間とは:個人的な所感、なんでもないような物事を綴るミニエッセイの場です。
茶の間2026/09/02

読書とわたし

 エッセイによくありそうなタイトルである。

 或ることについて書こうとして、展開の都合上自分の読書遍歴を語る必要を感じたのだが、きちんと書くとなったらあまりに長くなって何の話かわからなくなってきたので、切り分けることにした。まあ一度整理しておけば他の機会にも使いやすいだろう。

読書が苦手

 記事でもSNSでも何度も繰り返しているのでいい加減しつこいが、私は基本的に読書を苦手にしている。
 自分の人生的に普通の読書ペースというのは、月に複数冊読み終えたら拍手、という有り様である。読まなくていいなら読まない。

 本を侮っているというのではない。本は人々の叡智の結晶であり、読んだほうがいいに決まっている。読んだからといって偉くはないが、読もうとしないのは愚かだと思う(→本に対する態度)。
 読むことが苦手というのは、「読めない」という意味ではない。うまく言葉にしづらいが、「大人しく読んでいられない」と言ったらいいだろうか。自分の思索の方に気が移ったり、他のことをしたくなったりする。本を読んでいられる人は「誰でも多少はそう」と言うだろうが、大人しくしているということがなんとしても我慢ならないレベルで「そう」であることは理解されないだろう。それゆえ本を読むことには失敗体験がつきまとい、苦痛なのでそれを避けたいのである。

 文字を読んでいないわけではない。新聞を読んだりWeb記事、Web小説を読んだり、あとはまあ普通に処理すべき書類や連絡を日々読んでいるわけである。
 読みやすいものだけ読んでいるというのとはちょっと違う感じがある。難易度の問題ではない。簡単な話だろうが本は大人しく読んでいられないし、新聞は気が向けば歯ごたえのある記事でも読む(全て隅々まで読んでいるわけではないが)。SNSも話の難易度とは関係なく読んでいられる。

 そんな感じでほとんど本に限ってまともに読むのが辛いのだが、稀に「大人しく読む」が可能になる場合がある。人生で何度かあった。

①【小学校】三国志やファーブル昆虫記などいくつかのシリーズだけ集中して読んだ
②【小学校】ゲーム攻略本を隅から隅まで読んだ
③【中学~】ライトノベルの二つのシリーズだけ全部追って読んだ
④【大学~】心理学、自己啓発書、仕事術、ノート術の類をかなり読んだ
⑤【今】情報整理、知的生産系の古典・名著などを暇さえあれば読んでいる

 なんとも「浅い」感じで情けないが、実際こうなのだから仕方がない。

①三国志、ファーブル昆虫記ほか

 これらはつまり、本以外のルートで興味を持った領域について、学校の図書室に本があったから読んでいたという感じだ。ゲームで三国志を知り、たまたま出会った虫で昆虫を知った。
 インターネットがあったら話は違ったかもしれない。関心はあくまでそのジャンルに向けられていて、本という媒体を好きになることはなかった。ずっと図書室で本を読んでいたが、それにもかかわらず、本が好きな子どもとは到底言えなかったのである。
 なお家に帰ればだいたいゲームをやり、時々図鑑を見ていた。あとは外遊びが割と好きだったし友達と遊びに出ていたことも多かった。

 ちなみに読書感想文は心底嫌いだったくちである。もはや何を読んで何を書いたのかもわからないし、毎年あったのか一回だけだったのかもわからない。転校のタイミング上二回は飛ばしたはずだが、そもそもその時課題として出ていたのかも覚えていない。いずれにせよ人生上何の意味ももたらしていないのは確かである。

②ゲーム攻略本

 ゲーム攻略本は読書にカウントしていいのか?と思われそうだが、文字があるページは細かい字で隙間なく埋め尽くされ、トータルで見ればとてつもない文字数を含んでいるし、書かれている内容は極めて多岐にわたるので、馬鹿にしたものではない。
 もちろん書き手の質は他の書物らしい書物と比べれば劣るところはあるが、子どもからしたら言葉を学ぶのに十分である。テーマが深刻なRPGなんかはゲーム内でも攻略本でも相応の言葉遣いが用いられているし、へたな現代小説より余程語彙が豊富である。
 最近の攻略本がどうなっているのかは知らないが、少なくとも私が読んでいた頃の攻略本は、画面の写真や絵は多いが攻略内容自体は図解がほぼ存在せず、知りたいことは文章から読み取るしかなかった。データを整頓する意味での表やグラフなら様々あったが、ロジックは徹底して文章である。図解するというのは大変なので書く方も文章で書いてしまうほうが楽だったろう。
 ゲームをやるのは子どもばかりだが、子ども向けに感じる文章が使われていたのはポケモン関連などごく一部である。「大人が気楽に読む」くらいの感じであって、漢字にルビが振られることもなかった。小学生のうちから平気で中学・高校程度の漢字を読むことになる。
 子どもはゲームのためならどんな文章でもどんな量でも読める。何十冊も読めばそれなりになる。

 ただし関心はあくまでゲームであるので、ゲーム攻略本をどれだけ読んでも本好きになるわけではない。そりゃあそうだ。

③ライトノベル

 中学に上がってから、教科書を除いて初めて小説らしい小説を熱心に読むということになった。三国志も小説ではあるが、当時は小説というより歴史書として読んでいた(その頃は正史と演義の区別もまだついていない)。
 読んでいたのは二つのシリーズだけで、どちらも同級生が読んでいるのを見て知った。それぞれ別の作者だが、どちらについてもその文体に甚く感動した。が、その感動はあくまでそのシリーズに留まり、ここでもなお本を好きにはなっていない。常に「例外として、これは読める」である。

 今はたと思い出したが、漫画、ゲーム、映画のノベライズは多少読んでいた。ただしそれは①と同じで、本に興味があるのではなく、コンテンツに興味があってその中に本もあったから読んだというのに過ぎない。
 ライトノベルにしても、まず「その世界」を同級生から知って関心を持ち、その上で読むに至っている。本屋に並んでいるのを見てなんとなくで手に取ることはほぼない。ついでに言うと「世の中で話題になっている」という理由では読まない。だからライトノベルと言っても、読んだのは超有名なあのシリーズやこのシリーズではない。「本を開拓する」意欲がまるでない。

 どうしてそこで他の本にも手を伸ばすということができないのか自分でもよくわからない。まあ結構な長さのシリーズだったからそれを読んでいるだけでも時間は潰れたし、中学時代は漫画やゲームで忙しかった(し、部活と委員会と勉強その他もまあまあ大変だった)。高校となれば部活と勉強だけで一日が終わる。
 文学少年・文学少女でなければ、時間を他のものが埋めてしまうから、特別本が苦手でなかったとしてもそんなには読めないかもしれない。

 ちなみに、国語の教科書に載っていた作品にはかなり影響を受けた。まあ多分みんな同じ感じだと思うが、以下の作品から放たれた棘がまだ刺さったまま抜けない。

  • ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』(中学)
  • 中島敦『山月記』(高校)
  • 夏目漱石『こころ』(高校)

 『こころ』は教科書には一部しか載っていないが、別に本を買って全部読んだ。

④心理学、自己啓発書、仕事術ほか

 成人してからの話だ。これは「やっぱ大人なら実用書とか読まないとね」という大学生的ノリがあった――のではなく、自分は人間としてあまりに酷い欠陥品であり、このままでは死ぬほかない、という極めて切迫した状態にあったので、自分とはなんなのか、人間とはなんなのか、自分は人間としてどう生きなければならないのか、という答えを探し求めて本に縋りついていた。本という手段を選んだのは、単に人と関わりたくなかったからである。
 何を読んだらいいのかというのはよくわかっていなかったが、なんとなく救いに辿り着き、なんとなくまだ生きている。

 本に救われたのであるし本の力は重々理解したのだが、だからといって「読める人間」になったわけではない。読まねば死ぬという緊急事態だから読めていただけである。本を読むことが優先順位の一位か二位に来ており、他にやりたいこともなかったから、気が散りようもなかったのだろう
 本を読んでいる間はまだ生きていていいという思いもあった。自分をどうにかするための勉強を今まさにしているから、生きるも死ぬも結論を出すのはまだ待ってくれ、という状態である。本を読んでいない時間は怠惰であり、そこに一切の価値はないという心境だった。

 今思うに、もし他者あるいは世界に対する不信が先にあれば哲学に取り組んでいたかもしれない。しかし私は疑問を封じてだましだましそこまで生き、挫折に至った時点では他者や世界より自分の正体が不明であることの方が深刻であった。なので人類とは云々、認識とは云々、などということはどうでもよく、まず「私は何を感じ取れているべきなのか」ということに取り組まざるを得なかった。

⑤情報整理、知的生産系の古典・名著

 そこからだいぶ時が経ち今である。これも実は必要があって読んでいるに過ぎない。書き物に必要だから取材のために読んでいるのである。
 関心のある領域だから読みやすいのではあるが、そうであっても必要に迫られなければ五百頁を超えるような大著を読むのは難しい。

 というか、その意味では前から必要に迫られてはいたのだが、それでもエンジンがかからなかった。もう一押しが必要だった。
 少し前に好奇心発動に必要なエネルギーで書いたが、読書メモ書き写し2026で勢いがつき、半ば読書ノートをガリガリ書きたいがために、読書自体のペースも上がった。

で、最近読書の仕方が変わって(単に量や速さということではなく)、それは最近やっている「読書メモを猛然と書き写す」の延長で、どけどけどけーいと言わんばかりの加速度を生じた結果、読んでいる間の勢いが本1冊で尽きずに参考文献を入手して読み始めるまで届くようになり、「エネルギーが足りるようになった」という感じがある。
それまでは、1冊読み切るのがまず大変で、そこから参考文献リストを渡り歩くなんていうことはできなかった。疲れたから他の種類のものにするか、そもそも本を読むのを休みたいという状態だった。

 本を読むのに要するエネルギーが減ったのか、自分の持つエネルギーが増えたのかはよくわからない。そしてこの先あらゆる読書において維持できるものなのか、今必要に迫られている間に限られることなのかもわからない。
 読書に目覚めたような気もするし、単にこれまでもあった「大人しく読んでいられる」条件を満たしているだけの気もする。内容が高度化したために優先順位の並べ替えだけでは足りず謂わば「読書力」的なパワーが必要になってしまった。そのパワーを得ることは出来たが、それが恒常的なものなのかまだ確かめられていない。

塊の大きさ

 Webの文章、SNS、新聞、図鑑はよくて本は駄目だというのは、「読まなければならないひと塊」の大きさが関係しているような気はする。
 簡単だろうが軟らかかろうが、ひと塊がでかければ私は「大人しく読んでいられない」ということになる。

 既に知っているコンテンツなら本でも読めるというのも実は同じことだ。「そのコンテンツが何であるか」の把握に必要な労力はもう計算する必要がなく、「どこまで知るか」の問題になっている。ということは、それ以上知るにあたって「塊」を考える必要がない。どこでやめても構わない。読んだ分だけ知ったのであり、それは半端ではあっても別に「途中」とは思わない。全てを知らなければならないとは思っていないからだ。
 しかしそう捉えられるコンテンツというのは、版権ものか、あるいは教科書・解説書の類くらいに思われる。

 本は全部読まなくていいとか、必要なところだけかじればいいみたいなことを言う人はいるが、そういう読み方をできる本というのはごく限られてはいないだろうか。
 梅棹忠夫は『知的生産の技術』で、「まず、本というものは、はじめからおわりまでよむものである。」と書いている。加えて「わたしはけっして、読書ずきではない。どちらかといえば、本なんかよまないですませたらそのほうがありがたいとかんがえているふうの人間である。」とも語っている。そう言いながら当然膨大な量を読んでいるに決まっているのだが、「はじめからおわりまでよむものである」と「読書ずきではない」との間になんとなく因果を感じる。
 本は部分だけ読むのでよいという考え方と、本は始めから終わりまで読むのだという考え方が分かれるのはなぜか。それは本を読むということを何をするためのものと考えるかが異なるからだろう。「自分に少しでも知(または快)を増やす」と「語られている領域を理解する」とではまるで違ったことを目的としている。
 それぞれ仮に「雪だるま読み」と「地図作り読み」としておこう。

雪だるま読みと地図作り読み

 雪だるま読みにしろ地図作り読みにしろ、文献の側から要請されて決まることもあれば、こちらが「そのようにして読む」と決めて選択することもある。究極のところどんな文献に対しても自分で読みを決めてしまえるのではあるが、「著者の目的に沿うならばこちらの方がより妥当」というのはある。
 私が若い時分に「大人しく読んでいられた」のは(①~④)、それが雪だるま読みだったからであろう。本の側が雪だるま読みを前提としているか(図鑑、ゲーム攻略本など)、対象領域について既に粗い地図を作れていて雪だるま読みとして読むことができたか(三国志、ライトノベル、ノベライズなど)、部分的にでも吸収していかなければ死ぬという切迫感からとりあえず雪だるま読みを強行したか(心理学本、実用書など)、パターンはいろいろだが、いずれにせよ雪だるま読みである。
 本以外の媒体、つまり新聞、雑誌、単発のWebコンテンツ、SNSなどはそもそも「全体」がないので必ず雪だるま読みになる。

 著者の思想を著したような多くの「真面目な本」は、基本的には地図作り読みを前提としているように思う。まえがきからあとがきまでアウトラインがきちんと練られており、最初から順番に読んで最後まで到達することで、著者が語っている領域の全体像が理解される。著者はそのようにして全体を理解してもらうことを期待している。
 著者の意図を一切無視して部分だけをかじることは可能だが、それでその本を読んだと言うのは烏滸がましいだろう。既に理解していることとの重複部分を飛ばして読んでいくという意味での速読はできても、わかってもいないことを省いていったらそれは本を読んだのではなく都合よく利用したに過ぎない。
 地図作り読みの場合、その領域全体がひと塊をなすことになる。薄い本でも百数十頁はある。中身が難解だろうが平易だろうが、ひと塊の全体を理解して地図を作っていかなくてはならないことには変わりはない。
 ライトノベルやノベライズも、最初に「その世界を知る」という作業がある。今ならインターネットでちょっと調べて公式サイトを見たり○○百科事典の類を読んだり、コミカライズなど別種のメディア展開から入ったり、ジャンルによっては二次創作に触れるなどすれば入門できるが、そういう情報がない、あるいはそういうものに頼らないとすれば、小説そのもので地図を作る必要が生じる。つまり地図作り読みとして読むことになる。最低限の地図ができるまでにかかる労力は実際にはごく小さいかも知れないが、「この本によって地図を作らねば」というつもりで最初の一ページを開くことになるので、着手するのに気力が必要になる。

 私はこの地図作り読みを大人しくやっていられないのである。着手するのも億劫だし、やり始めても「ぐいぐい引き込まれる」ということにならない。というか、引き込まれたとしても、耐えられるのは最長で五十頁である。そして「もう無理」となってから再開するまでにインターバルが必要になる。一向に進まない。
 そんなんだからようやっと読み終えた頃にはうんざりしていて、参考文献を辿って次の本に、などということは到底考えられない。特に難しくもない大衆小説などでも同じである。内容の種類や難易度はあまり関係がない。

変化の兆し

 ところが⑤に至って、地図作り読みが大人しくできるようになった。となると、それまでたまに出来ていた読み(=雪だるま読み)とは違うものが急にできるようになったということになる。
 あくまで「必要に迫られている」という前提によって支えられてのものかもしれないが、どうかわからない。書き物とは関係ないジャンルでも読めているのだが、それもある種の「必要に迫られている」ものではある。「必要に迫られる」をどれほど拡張できるのかも今のところわからない。

 上に書いたように、「猛然と書き写す」の延長で「猛然と読む」ができるようになったというような気持ちでいるのだが、本当にそういうことなのかどうかも不明である。そもそも延長として繋がりうる話なのかもわからないところだ。「既存のメモを書き写す」と「新たな本を読む」との間には相当な飛躍がある。
 単に「やっと読書に慣れた」という話なのだろうか? いや、大人しく読めるようになる直前にやっていたのは書き写しの作業であって、読むトレーニングは別にやっていない。変化が唐突すぎる感もある。というか、慣れで変わるならもっと昔に変わっていただろう。嫌々でも慣れて然るべき程度には本を読んだはずである。

 ここまでの状況の整理はされたが、未だ全くもって謎である。