記事2026/08/28

ブログの書き方ド下手問題総集編~研究発表の巻~

 ブログ記事を投稿するという行為を完遂するには、実は様々なハードルがある。しかもそれらの形は直面してみないとわからない。前まで気にも留めていなかったことがある日突然壁となって立ちはだかることもある。

 なんか書きにくい、と自分が思った時にその都度その原因を考え考えして書いたのが「ブログの書き方ド下手問題」と銘打ったシリーズで、もう17本+αになっている。それぞれの記事は私自身の悩みに答えを出す過程全てを書いているので、追体験してもらうにはいいかもしれないけれども、つまり何がどうなのかという「情報」としては全く良い形になっていない。なので、この辺で一旦格闘の成果をまとめておこう。
 なお内容は自分との戦いの結果に過ぎず、独断と偏見でできているものとしてお読みください。

 項目があまりに多くなってしまったので、折りたたみで並べていくことにする。

文章が書けないんです

①書きたい気持ちだけはあるけど言いたいこととか別にないです

 「書きたい」という思いは、「言いたい」と実はあまり関係がないことがある。何か使命感があればそれを「言いたい」がためにひとつの手段として書くことを選ぶかもしれない。しかしそんなものは何もなく、人に読んでもらいたいのかどうかもよくわからず、漠然と「書きたい」と思う場合もある。
 けれども、自分しか見ない日記などを書いていても満足できない。ただ思いを言葉にできればいいというものではないようだ。だからブログなどに書いて公開したい。この欲求は、私という人間がここにいる、ということを確かめたいし認めてもらいたいということから来ているのではないかと思う。人に伝えたいことはなくとも、誰かに読んでほしいという思いはあるのだ。

 ただ、読んでもらうということは読み手にとって何か良いことがないと成り立たない。人に言いたいこともなくただ個人的な話を書くだけなのに、読み手にとって良いことというのはあり得るのだろうか?
 もちろんあり得るのである。それは例えば共感を呼び起こすことだ。読み手が「わかるー!」と思うこと。同感ではなくとも、読み手自身が己についてつい一緒に考えてしまうこと。人間と人間の共鳴を生ずるのである。ただし「共感されそう」なことを狙って書いても大した共鳴にはならない。共感というエンタメとして消費されて終わってしまう。
 しかし個人性を突き詰めて書くならば、読み手との間に深い共感、魂の共鳴が生まれることがある。それは自分の文章の存在意義として十分なのである。(存在意義の種類は他にも数多ある。共感・共鳴だけがあり得る道というのではない。)

ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

自分の内面を認識することに自分の思考の多くを割いてしまう癖があるために、そこに形になる成果が生まれないと割に合わない。自分のことをそっちのけで他にエネルギーを費やす才能は私にはなく、エネルギーを自己の内面に振り分けてしまうことが避けられない以上はそこに価値を生み出せないと困る。

もし私がテレビで毎日見かけるような超有名芸能人ならば自己の内面を語っただけでとてつもない価値を生むかもしれないが、そういう付加価値は私には僅かにもないので、私が何かを書くに当たっては書き手が主人公であり続けるのではなく、読み手が主人公になれる瞬間がある文章を綴らなければ私のエネルギーは無駄になるだけなのだ。読み手が主人公になるとはつまり共感の感動である。

②思いが文章の形になりません

 ブログ記事は自分語りでもいい。とはいえ、自分語りにも構成というものは必要になる。読み手が「読んでよかった」と思えるような文章にするためには、理解し、共感し、納得するに至るような組み立てが要る。あるいは、読者を呆然とさせるような勢いと迫力を演出するような組み立てもあり得る。なんであれ、読み手の読後感を想像しなくては構成はできない
 しかしそのように書かなくてはいけないということではない。ではないが、読み手を考えないで文字通りに「書きたいことを書いた」だけだと、誰にも反応されず虚しさに悩まされる可能性がある。それでもいいのか、それは避けたいのか。
 読み手の読後感を考えることによって、書くのがかえって自由になる。目指すべきものがわかっていれば自在に脱線もできるからだ。容易に動けるという意味での自由はまず型によってもたらされる。何ものにも制約されない自由を目指すのはその先のことであろう。

 型はいろいろあり得るが、私がまずこのシリーズを通して実践したのは以下の組み立てである。

  1. 自分にはできないこと・困っていることがある
  2. その理由はこれだ
  3. こうしていけばいいかもと思った、こういうことをし始めた

 他にも「違和感がある→その理由はこれだ→こうなってほしいと思った」とか「やってみたことがある→その結果はこうだった→こういうことが起きていたのだと推測した」とか「昔の自分はこうだった→今の自分はこうだ→自分はこう変わったらしい」とか、自分語りでも様々あり得る。
 基本的には、メモ術・ノート術の文脈でもよく言われるように、事実→分析→発展の流れをベースにした方が考えやすいし伝えやすいだろう。ただしこれは頭の動きを滑らかにするためのガイドに過ぎず、杓子定規にフォーマットを作って守る必要はない。事実だけ、あるいは分析まで、ということもあって良い。(後述の⑤とも関係する。)

ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~

自分の中の現象は数多の人間の中の現象であり、全ての人間の中に起こることではないにしろ、誰かが言葉とともに自覚したかった現象なのである。

自分語りに対して読み手が期待するのは、書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、案外「膝を抱えてぐだぐだといじけている」ようなことなのではないかと思う。気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。

③文体がわかりません

 書きたいことがあっても、それを一体どういう語り口で書いたらいいのか。これはかなり大きな問題である。文体が定まらなければ実際に綴っていくことができないし、文体こそが文章の展開を決めることもある。歴史的な大著にも、長年温めてきた構想について然るべき語り口を見出したことで一気に書き上げるに至ったというものがある。
 文体は文章を書く目的、読み手との距離感、演出したい雰囲気などによって変わってくる。読者の認識を変えたいのなら読者に訴えかけたり導いたりする語り口にする必要があるし、読者に寄り添いたいなら柔らかく語りかけるような語り口にするのがよいだろう。読み手をどうしたいというのがない場合、独り言として自分に馴染む言い方を見つける必要がある。自分にとって自然な語り口を既に見出しているのなら、それに従って書いていけばよい。
 日本語なら敬体か常体かで大きく分かれるが、それぞれどういう敬体か、どういう常体かということにバリエーションがあり、単純に選べるものではない。自分が好きな文章はどのように書かれているのかを分析してみれば、文体がもたらす効果は自ずとわかってくるだろう。

 どうも書けないと悩んでいる時、内容に対する解像度の低さや語彙の乏しさに原因を求めることが多い気がするが、まず文体が決まっているのかどうか。不自然な語り口になっていないか。呼吸するように書くためには、語り口に迷わないことが第一に必要である

ブログの書き方ド下手問題③~自分節を見つけ出す~

目的が定まらないことには読み手を想定することもできない。ターゲットを絞らないままでは「なんとなく多くの人に読んでもらえそうな文章」というのをぼんやり書くことになってしまう。
読み手を想定するということは、読み手との距離や読み手へのアプローチの強さを決めるということである。絵的に考えるならば、矢印の向きと長さと大きさと質感をイメージすることと言えよう。

私は人に語りかけたいのではないにもかかわらず、語感の柔らかさを求めて敬体を選択してしまったがために、人に語りかけるものとして適切な内容を書かなくてはいけない気分になっていた、というのが私の迷走中に起きていたことなのである。

④考えがまとまっているはずなのに文章にならないんです

 まずあり得るのは、むしろ「考えがまとまっているから」文章にできない可能性である。文章を楽しんで書くには、書きながら発見がないといけない。あまり事前に固めすぎてしまうと、それを文章にする工程がただの作業になってしまって辛くなる。
 また、事前にひねり出したピースがそれぞれ意味を持ちすぎて、それらをうまく繋げる流れが見つけられなくなることもある。独立したものに後から文脈を作るのは難しいのである。ブログ程度の規模の書き物ならば、予め考えを練っておくより書きながら考えた方が良いこともある。
 そういう問題ではなさそうなら、内容の方が枷になっているかもしれない。

 もしもそれがブログのテーマに沿っている内容ならば、②の「型」や③の「文体」について固めることが解決の糸口になる可能性がある。
 一方、自分がブログでやりたいことと合っていない内容の場合、いったい誰に対して何を言おうとしてそれを書くのかというのが定まらないかもしれない。考えたこと、知ったことを並べていっても、それにまとまりをもたらす軸がなければ迷子になってしまう。自分は何を書きたいんだっけ、と思って筆が止まる。
 考えの全てが記事になるわけではない。記事にすることが知の目的なわけでもない。認識を整理することがゴールということもあるだろう。本当に記事にしたいことなのかを自分に問うてみてもいいかもしれない。

ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~

問題となるものをあまりにもきっちり解いてしまうと、それを文章にする時に楽しみが何も残っておらず、億劫になってずるずる先延ばしにしてしまうということは十分にあり得る。

大抵の書き手がその人なりのテーマに沿うものだけを書いていて、その人が思索を巡らした全てのものについて書かれることはまずない。全てが記事にならないのはごく当たり前のことと言えるのかもしれない。

⑤他の人の文章への感想を記事にしたいのにできないんです

 誰かの文章を読んで何か感動した時、こんなに心打たれたのだから形にしなきゃ、と思うことがある。
 動機としては二つのことがあるだろう。まずその相手に感動したことを伝えたいということだ。そして自分の感動を表現して残しておきたいということである。

 感動というのはくせもので、その煌めきの強さから自分にパワーが湧いてくる感じがする。そしてそれほど感動したなら書けるはずだと思う。しかし、それは必ずしも言葉にできるわけではない。「感動しました!」以上の言葉が出てこないことがある。言葉にしたところで、元の文を言い換えて繰り返すだけになってしまうこともある。
 もしも、筆者に伝えたいというのが第一ならば、元記事のコメント欄やSNSでのシェアの形で感想を伝えてしまえばいいだろう。うまく言えないからと黙っていられるより、簡単な言葉でも伝えてもらえたほうが嬉しいものである。

 あくまで自分の表現として自分の記事を増やしていきたいということなら、滑らかに進められるやり方を考える必要がある。
 自分の表現を残したいなら書きたいことが何かあるはずだ。例えば「身に覚えがある」とか。そこでその「わかる」感じを「納得しました」とか「私もそう思います」で済ませてしまうと話が膨らまない。どう「身に覚えがある」のかを掘り下げてみるというのがひとつ。
 なお、納得感を「私も同じことを考えていた」という路線で書こうとすると、相手のほうが巧みな文章を書いている場合、頑張って言葉にした割にその劣化コピーのようになり「この文章に何の意味があるんだ?」と虚しくなることがある(必ずそうなるというわけではない。時にはそう感じる場合もあるということ)。なので、理屈の部分をなぞるより、個人的な話をした方が楽かつ面白く書ける可能性はある。そのあたりは記事を書く目的によるだろう。

 あとは「あれと似てるな」という気づきを得たというパターンもあるだろう。その場合はどこがどう似ているのかを詳しく書いてみる。アイデアというのは既存のもの同士の結びつきであり、自分の気づきが他の人にとっては意表を突くものであったり、新たな思索の扉を開く重要な発見になったりする。

 感動を伝えたいという思いが強すぎて自分の思いつきの話がしづらく感じる人もいるかもしれない。その場合は、コメントやSNSと自分のブログ投稿を使い分けるとか、記事の中でも感動伝達フェーズと思いつき表現フェーズをはっきり分けるといった工夫があり得るだろう。

 全く別角度の解決策として、「最近読んだ記事」として複数の対象をまとめてしまい、一言ずつ添えるだけでいいようにするという方法もある。記事をたくさん読む人はそうするのも手だ。

ブログの書き方ド下手問題⑩~人のブログにコンボを決めたいのに~

ここで言いたいのは、「これはこういうことなんだ」という感動だけでは、その感動の大きさの割に必ずしも表現には結びつかない、という悩みがあることである。人の文章についての咀嚼・解釈に個性はそんなに現れない。読解は筆者が意図する意味合いに迫る試みであって、そこに自分の創造性がやたらと反映されていてもおかしい。

⑥書くということが苦痛です

 書くことが辛いということはある。辛さのバリエーションの全てを知っているわけではないのでここで語れるのはそのうちのごく一部だが、言えることだけでも言おう。
 文を綴るのが辛いのか(言葉が出てこない苦しみ)、文章を構成するのが辛いのか(話を展開させられない苦しみ)、説明的に文書を作成するのが辛いのか(作業になっている苦しみ)、それぞれで対処法は違ってくるだろう。

 言葉が出てこないということについては、正直はっきりしたことは言えない。単純なテクニックとしては類語辞典を引いて「より妥当っぽい語彙」を探すとか、今なら生成AIに「こういうことが言いたいんです、表現の候補を出してください」とでも言ってみるとかすればいい。
 しかし基本的には、よく読み、よく書き、よく覚えるという努力にかかっている気がする。語彙を増やせるものを選んで読む必要はあるが、別に難しい本でなくてもいい。明治~昭和の文豪の本を読むとか、新聞を隅から隅まで目を通すとか、あるいは大河的な深みのある長編RPGで遊ぶとか、やりようはいろいろある。漢字検定二級の勉強をするでもいいだろう(それより上は別にやらなくていい)。そして覚えた語彙は自分で使う。自由に扱える語彙が増えれば、自分の思いを言い表す言葉の候補が頭に浮かびやすくなるのではないか。

 話がうまく展開できなくて辛いという場合には、そもそも自分は何をしたくて書いているのかが明確になっているかを問う必要があるだろう。それが曖昧だと行き先が不明なので、話が展開するかどうかは博打的になってしまう。(⑰とも関係する)
 いや目的ははっきりしています、メッセージもあります、というなら、あとはもうテクニックの問題ではなかろうか。
 演劇でも映画でも小説でも評論でもなんでもそうだが、話の展開には型がある。大学入試で小論文をやった人は染み付いているだろう。他の文章がどういう展開でできているかを調べて真似ればそれほど苦労しなくなる気がする。

 文章を書くことにおいておそらく最も日常的な苦しみは、「説明のための文章」である。
 文章を書くのが楽しいと思えるのは、文章を書く過程で発見を得られるからである。文章というのは必ずしもわかっていることを書くものではない。むしろ「わかるために」書くということがある。そのように目的を設定しなくとも、書いてみたら新たなことをわかってしまうということが普通にある。
 しかし、何かを説明するために文章を書く時、例えば事務的文書は全てそうだが、書くことが途端に辛くなる。ただただ、読み手にとって理解が容易か、誤解がないかを考えて設計していかなくてはならない。書いている自分自身に旨味がない。本を書くということもしばしばそういう状況になるだろう。
 仕事の文書や本は仕方がないとして、ブログの場合には、文章を書く過程を自ら説明作業化してしまわないことも大事である。というのは、自分の考えについて予めアウトラインやカードなどで整理しすぎると、それを文章にするとなったら、もはや発見はなく「文章に変換して組み立てる作業」になってしまいかねないのだ。
 考えは整理するに越したことはないが、どういう形でどのタイミングで考えの整理ということをするのかによって、ブログを書くという行為の質が変わってくる。ある意味で見境なくなんでもかんでもブログに書いてしまうような人の方が、書くことが楽しく、苦労がないだろう。考えは文章にしてから整理してもいい。

ブログの書き方ド下手問題⑯~旅にならない文章を楽しんで書くには~

止まることなくブログを書ける人は、考えが整理されているからそうできるのではない。考えを整理していないから、今から整理しようとして文章という副産物を生み出せる。 そう言ってしまうことも可能かもしれない。

探検の旅が楽しいのは、発見という臨場感があるからである。「今まさに」感があるということだ。ならば整理の工程にも臨場感があればいい。「今まさに整理している」ことを書き表すわけである。

書いたものに納得できません

⑦オチとか結論とかないんですが

 オチも結論も別になくていい。

 ②で型を利用して書くことを勧めたが、あくまでそれは自分が自由になるためのものであって、それに縛られてはいけない。
 例えば私は「書いているうちに何らかの結論が出る」ことに快を見出し長文記事を連発していたのだが、その型に囚われるとなんでも結論を出そうとしてしまうわけである。あるいは「面白さ」に囚われた人はオチをつけようとしすぎることになる。
 なので②でも強調したように、事実だけ、あるいは感じたことの分析だけで終わっても別に構わないということを忘れないようにしたい。私は結論を出す話とそうでない話がブログ内に混在することが気持ち悪く感じられて困っていたが、のらてつの茶の間という場を別に用意したことで解決した(現在はタグによって分けられているだけである)。ブログを複数持つ人はしばしば見られるが、そのような使い分けを感じることが割とよくある。

 ちなみに結論まで出すということは、その話が一応その人の中で完結しているということになる。逆にそこまで進まずに終わっているものは、話題が読み手に開かれていると言えるかもしれない。読んだ人が「私もこうだ」とか「こうしたらいいんじゃないの?」とか、色々な感想が生まれやすい。
 一般論で言えば、完結している話には批判の余地があり、開かれた話には読み手の価値観に基づいた(書き手にとってはしばしば意味を持たない)提案がなされる可能性がある。それを踏まえれば、思いがけない反応に戸惑ったりせずに済むかもしれない。ミステリアスな香りを演出して読み手の早合点を封じるテクニックもあるだろう。③で文体の話をしたが、語り口というのは読者の反応を制御することにも関わってくるのである

ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~

自分という人間の存在に関わるとなれば、そこには何らかの結論もあるだろうし、ガッチリ構造を作って説得力や魅力を備えて発表しようというモチベーションも生まれる。一方で、別に自分の価値に繋がるようなものでもないとなれば、思いついたことを書きたいという場合でも必ずしも何かの結論があるわけではない。必要に迫られていないので持論を組み上げねばとは思わないし、自分としてはそんなことをしないでそのまま書けたらなと思う。書く側が結論を必要としていないのである。書きたい範囲を書けたらそこがゴールで、プラスアルファとして読み手が面白がってくれたらより良いというものだ。

無理して結論めいたものを書こうとしなくてよかったのにな、と思う記事がいくつもあるのだが、結論を捻り出さないとしてその記事はどういう位置づけになっただろうか。そう考えると、多分それは「近況報告」というものだったのだろう。「○○してみた結果、~と言えそうだ」とまでいかずに「○○してみた」で止めても良かった。

⑧紹介したやり方を後でやめてしまって後ろめたいです

 ブログ記事を書く時にブレーキになるのは、「文章を書く」ことの難しさだけではない。例えば、「私はこれをこうしています!」と言ってあれこれ良さを語っておきながら、それをやめてしまったような時。あの話はなんだったのかと思われそうで後ろめたくなることがある。
 いい感じの記事を書こうという思いが強くなりすぎると、いい話をしたくなってしまう。そこで一歩余計に踏み出して書かなくていいことを書き、後からそれに縛られることになるのだ

 対処法は簡単である。事実だけを書いて、殊更に良さを強調したり「勧める」ような言い方をしたりするのは避けることだ。「こうしてみた」だけにすればいいのに、「こんなにいいことがあった」「他の人もこうしてみたらいいと思う」を言い出すと、後でデメリットが見えてきた時に自分の文章が詐欺に思えて苦しくなる。
 事実だけを書くというのは、別に淡々と感情を排して書くということではない。楽しいなら楽しげに書けばいいし、いいことがあったならいいことがあって嬉しい、テンションが上がっているということを書けばいい。そこから変な一歩を進んでしまわなければ悩みは生まれないだろう。

ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~

確かにその時点では有効だったから書いているわけで嘘を言っているつもりは全くないし、実のところそれに価値があると見せかけたかったわけでもなかった。そもそも「有効性がある」ということを言いたくて書いているわけではない。それなのに、やり方というものを紹介するにあたってはこれこれこういう有効性があると語らねばならないような気がしていたのだ。ブログというものを書く以上、価値のある情報を出さなければ……という呪縛があったのである。

文章が持つ価値というのは、「ここにこういう価値がありますよ」という語りではない。読み手の中の何かを動かしたということが価値になるはずである。「これに何の意味があるのかわからないけどなんか楽しそう」という感想を生むのも価値なのである。

⑨誤解をおそれて話が冗長になるのが悩みです

 言葉はどれほど尽くしても完璧なものにはならない。書く側の表現も不完全だし、読む側の読解も不完全である。よほど相性の良い間柄でない限り、どう頑張っても伝わらないこと、間違って伝わることというのが発生する。せっかく丁寧に書いても、勝手に「枝葉」と判断され斜め読みで飛ばされることもある。
 これはもうどうしようもない現実だが、それでもなるべくなら正確に伝えたいと思うのは自然なことだろう。しかしその殊勝な心がけには注意が必要だ。

 目指しているのは「誤解なく伝える」ことだとしよう。そこに「なるべく」をくっつけて考えると、それが完全に達成されるゴールというのは「(全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)伝える」ということになりかねない。どう考えても無理であるし、それを自覚的に目指している人はそういないと思うが、しかし何のラインも決めずに「なるべく」を求めると、つまるところこれを目指しているのと同じになってしまうのである。
 どうしてそんなに誤解をおそれるのだろうか。誤解されると何か困ることがあるのか? それがあるのである。「困る」をどの程度のレベルに設定するかによることではあるが、迷惑を被ることは実際ある。勝手に誤読した人が頓珍漢な批判とともにシェアして風評をばら撒くことは全く珍しいことではない。
 ただ、それが「生活に支障が出るほど困るか」というと、まあ炎上しない限りはそこまでのことにはならない。気分は害されるかもしれないし、ある集団に嫌われるみたいなことはあるかもしれないが、「実害」というほどの被害ではないならおそれるほどのものではないのではないか。

 誤解する人はどうやっても誤解する。わかってくれる人はガチガチに言葉を固めなくてもわかってくれる。ブログの記事ならば、わかってくれる人に伝わることだけ考えて書くくらいでちょうどいいかもしれない。

ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~

そこをよくよく考えてみると、自分には「話の全てを自分が感じているように読み手に感じてもらいたい」といった欲求があることがわかった。もうちょっと無機質に言うと「誤解なく追体験させたい」ということだ。そうすると、読み手を文脈に乗せることが絶対になり、文脈から外れかねない分かれ道は全部塞いでおきたいということになる。

冷静に考えた時、まず「誤解されるとそんなに困るのだろうか」という問いが浮かぶ。全く困らないということにはならないが、「そんなに」困るかと言うと、そこまででもないかもしれない。誤解した人間が何か影響力の大きいことをしでかさない限り、本当の意味で私に不利益になることはまずない。声のでかい人の偏った解釈が出回るとか、好ましくない集団の中に晒されるとかするとそれは実際問題困ることになるのだが、そうならない限りは単に「イラッとする」程度のものだろう。

⑩自分の文章が当たり前の話に思えて投稿する気がなくなります

 一時期かなり苛まれていた悩みだが、いつの間にかあまり考えなくなっていた。
 知的に自信がある人にはあまり共感されないかもしれないが、「頑張って書いたけど、これって『そりゃそう』では?」という思いに苦しめられることがある。
 書いている間は何か発見をしたような気になってせっせと書いていくのだが、書き終えてみるとなんだか大したことのない、至極当たり前の話を書いてしまったような気がしてくる。それを投稿して「そりゃそうでしょうね」と思われたら悲しいし、自分が馬鹿みたいに思えてくる。それは「もしそう思われたら」の話であって幻に怯えているに過ぎないのだが、書いたものが無価値であったら怖いという思いを抱くのはおかしなことではないだろう。

 この「当たり前」感が生じるのにはいくつか理由がある。

  • これまで言葉にできていなかっただけで、自分の中に既にあった発想である
    • よって言葉にしてみると、自分にとってよく納得できてしまうために「ふつうのこと」に見える
  • 自分が思いつくなら他の人も思いつくはずである

 自分が書いているがために、自分にとって「当たり前」にならざるを得ないパターン。自分が凡人であるのだから、自分が書いたものもありふれているに決まっているだろうというパターン。後者については、「そんなことはないよ、誰だって唯一無二の存在なのだから書いたものもオリジナリティが保証されているよ」などと慰めることはできない。現実としてだいたい実際そうである。

 この苦しみについては解決として少なくとも二つの解釈法がある。

  • 自分にとって書くまで当たり前でなかったくらいなのだから、そこまですごく当たり前ということはないはずである(当たり前でないと思ってくれる人がいるはずである)
  • 「当たり前かもしれない」ということが気になっていること自体に問題がある

 他人から見たらすごく個性的で何を書いても面白いのにこの悩みに苦しめられている人もいる。しかし、実際に「何もかも当たり前だよね」などと言われない限り、「当たり前なのではないか」というのは自分の杞憂に過ぎない。もしかしたら一人で悩んでいるのが問題を根深くしているかもしれない。信用できる誰かに素直な評価をしてもらうことが安心に繋がることはある。

 じゃあ「当たり前だよね」と言われてしまったらどうするか。残念ながらというか、人生経験の様子や思考の働きの個性などによって、物事を「当たり前化」できている具合というのは人によって大きくばらつきがあり、ゆっくり進んでいれば他の人にとって「今更?」と思う話をいい年になってようやっと感得したりするものである。ゆっくり進んでいる方が「代わりに濃い気づきを得られる」という保証もない。それはもう仕方がない。
 しかし、自分が人類一ゆっくり生きているなんていうことはあり得ない。そんな特別な存在ということないはずだ。ならば、自分と同じ程度、あるいは更にゆっくり生きている人は当然いる。その人たちにとっては自分の語りは決して当たり前でないことになる
 ただ、「今更?」な話が高く評価されることはあまり世の中から歓迎されないので(それこそ「そりゃそう」である)、意地悪な人の冷ややかな反応に遭遇することは悲しくも避けがたい。

 そもそもの話、なぜ「当たり前かもしれない」が気になるのか。当たり前だとなぜ嫌なのか?
 文章を「世間に自分をアピールするもの」として考えれば、当たり前という評価はアピールを切って捨てられたようなものなのでそれは悲しくなるだろう。自分の価値を否定された気がして傷つくかもしれない。
 しかし文章を書く動機というのはそれだけではない。例えば「誰かを助けるために書くのだ」という使命感があったとすれば、一体何度同じ話がされていようが、構わずに何度でも同じことを言うはずだ。「エアコンを使わなければ熱中症になってしまうぞ」と強く思えば、誰でも知ってる話でもそう訴えられる。「ちゃんと寝ないと突然死んでしまうかもしれないぞ」と強く思えば、何度でもそう書ける。
 もしも「当たり前ではないか」ということに悩まされているならば、文章によって達成したいことは何なのか、自己顕示に終始していないか、それを自分に問うてみる必要があるかもしれない。

ブログの書き方ド下手問題⑪~そりゃそうでは?問題~

ノリノリで投稿している記事と同じテンションで書いているつもりでいるのに投稿に躊躇う時がある。それは多分、「○○な人のため」という意識が欠けている時なのだと思う。じゃあどんな意識でやっているのかと言えば、「自分(の文章)が面白いかどうか」である。自分の存在意義に意識が向いている。だから「もう常識かもしれないことを発信してどうするんだろう」という思いに支配されることになる。みんなが知っていることを書いていたんじゃ自分の文章には価値がないんじゃないか、という発想だ。「みんなが知っていることを書いても意味がない」というルールのゲームを自ら設定しているということである。

⑪自分で何を書いているのかよくわかりません

 ブログは自分のために書くものでもあるので、他人にとって意味不明なものになってしまっていても、自分にとって意味があるならば、それはそれで構わない。(ただし「読んでもらえない」ということは覚悟する必要がある。)
 しかし、自分にとっても意義が曖昧である、そもそも自分で読み返して文章の意味がわからない、となるとちょっと困る。いや、それでも無意味ではないのだが、「もっといい感じにできたはず」というもったいなさはある。

 私は自分語りに際してこの悩みに直面したので、ここでもとりあえず自分語りの話として考える。
 まず「何を書いているのかがよくわかる」とはどういう状況かを明らかにしてみよう。だいたいこんな感じと言えるのではないか。

  • 何についての話かが明快である
  • 何が解き明かされたのかが明快である
  • 何を言いたいかが明快である

 自分で何がなんだかわからなくなってくるのは、自分の中でもこれらが曖昧だからだろう。あるいは、説明が異様に長くなりすぎて、本筋がどこにあるのかがわからなくなっている。自分がわからないなら読み手も当然わからない。万人に対して不親切で誰も得をしない文章が生み出されてしまう。
 読み手にとって親切な文章はどうあるべきか――ということについてはとりあえず脇に置いて、まず自分の混乱をなんとかした方がいい。

 自分の中にあるもやもやを書き出そうとしているような時、その正体自体がわかっていない。それがわかるならそのもやもやは存在しないのである。何かに悩んでいるのだが何に悩んでいるのかよくわからない。言葉だけが空回りし、自分が何を描写したのかも曖昧になる。
 変に理屈を知っていると、言葉に振り回されて余計にわけがわからなくなる場合もある。聞きかじった方程式を当てはめて、自分の実情に合っているのかそうではないのかもわからないまま、それっぽい言葉がただ増殖していく。結局何を考えて何がわかったことになるのかさっぱりわからない。何が解かれていないのかもわからない。
 まず事実を整理した方がいいだろう。具体的に、こういうことがあって、それが不本意であると。その正体がわからないから困っている。描写するならばこのような感じである。その上で、今の自分はこのような仮説を立てている。といった具合だ。そこまでやれば、自分が何を考えていて、その考えが妥当なのかどうかを自他が判断できるようになる。話の筋が明確になってくるだろう。

 自分との戦いをただ書く、それでいいと割り切っているなら、そのように整理するだけで解決するような気がする。しかし読み手のことを考え始めると問題は一層複雑化する。「読み手に自分のことをわかってほしい」とか「読み手が得をする何かを導き出したい」とか、そういったことである。
 ごく個人的な、自分のための文章であるというのが結局核にあるにもかかわらず、読み手とのコミュニケーションをそこに盛り込もうとした時、その文章での「言いたいこと」なるものを作り上げなくてはならなくなる。「~~というのが私なんです」かもしれないし「~~ということはきっと他の誰かにも共通するはずです」かもしれないが、そのようなコミュニケーションは自分との戦いと同時には成り立たないのだ。向きが内と外で真逆だからである。
 なのでステップを分けて考えたほうがいい。徹底して自分と向き合うための文章と、そんな自分を世界と接続させるための文章とを分けるのだ。それらがひとつの場に混在するのが嫌ならば、投稿場所自体を分けてしまってもいい。

 これはあくまで「自分の文章のわけわからなさに困っている」ということが前提の話である。迷宮のような文章を綴っていても自分がそれでいいならそれでいいのである。ブログは自由なのだから。

ブログの書き方ド下手問題⑫~経緯を説明しようとし過ぎている~

話を適切に解体できていなければ、読み手として想定する像も曖昧になる。したがって、誰に向かって喋っているのかわからなくなってくる。メッセージがシンプルでないために記事全体の意図も一文一文のニュアンスも不明瞭になる。よって意味のわからない文章になる。

⑫伝えなきゃいけないことがいろいろあって文章が複雑になってしまいます

 ブログ記事は記事であって本ではない。それゆえに、同時に達成したいことが複数あった時に困る場合がある。
 noteに投稿する記事は1000字から1500字くらいが目安というのを見たことがあるが、そうなると基本的には一度にひとつのことを書くことになるだろう。詩的な表現なら同じ字数でももっと広がりを持たせられるが、基本的にはシンプルでわかりやすい文章をひとつひとつ書いていくことが奨励されているように思う。
 別に一度に何千字、何万字と書いてもいいのだが、それをするなら構成をきちんと考える必要が生じる。

 だから気楽にブログ記事を書くのならば一回にそんなに盛り込まないほうがいいのだが、悩むのはどうしても複数の要素を一度に語ることが必要な気がする内容の場合である。
 何かについて感じたことを書くにあたり、その「何か」について詳しく説明しないと伝わらないということがある。知りたきゃググれとばかりにショートカットする手もあるが、それにはデメリットもある。
 ちゃんと説明した方がいいとなった時、その説明がどの程度必要になるか。一文添えれば済むようなものなら問題にはならないのだが、自分の感じたことが「細かいこと」である場合、「何か」の説明も厳密にならざるを得ないと思われる。そうすると前置きが異様に長いということになりかねない。

 緻密な説明と所感がセットになっている文章の代表が紀行文である。紀行文は説明部分そのものが面白く、その上で自然な流れに乗って著者の感想を読むということができる。著者の感想をメインと考えるならば、前置きがものすごく長いことになるが、ふつうは旅の描写も(あるいはそちらの方が)メインであって、それを「前置き」とは思わない。
 紀行文に倣うならば、ひとつひとつをきちんとメインに仕立てて進むのがよいだろう。「何か」についての説明部分も、それ自体が単独で面白くなるように書く。そしてそれを受けての自分の感想も、それはそれで単独で面白く書く。まあ面白く書けるかどうかはともかくとして、それぞれのフェーズを大事にするということだ。それらは見出しで分けてもいいし、長くなるようなら記事自体を前後編にしてもいい。

 説明すべき事実があまりにも多いようなら、もしかしたらそれはもはやブログでやることではなく、ひとまとまりのちゃんとした「知」として、本にまとめた方がいいかもしれない。

ブログの書き方ド下手問題⑬~知らせたいことと言いたいことは分離する~

「表現」と「共有」を同居させるならば共有部分が十分コンパクトであった方が良い。どうしても膨張するなら、せめて「共有」のターンと「表現」のターンははっきり分けて書く。情報の共有は淡々と明快に進め、自分の解釈は別途噛み直すようにして表現する。巧みな人は織物のように両方編み込んだ文章を書けるかもしれないが、それは非常に高度な技術になってしまうだろう。

本当の紀行文ならば、大体そこにある事実が面白いし、五感に訴えるものだから何かしら想像を膨らませやすい。わくわくさせたところに作者の所感がすっと加わることで臨場感も増すだろう。
ところが。具体的な事物ではない世界の話をしながらとなるとどうもうまくいかない。五感に頼れない場合、イメージを浮かばせるのがとても大変だからだ。

⑬自分の文章が面白くありません

 自分の文章を自分で読み返して面白くないなら、多分だが、他の読み手にとってもそれは面白くない。いや、プロフェッショナルのこだわりという意味で、例えば葛飾北斎が八十を過ぎて「猫一匹まともに描けない」と言ったような意味で「面白く書けない」と言うのはまた別だが、そういう人は今こんなものを読んでいるはずはないのでここで考慮する必要はないだろう。
 なぜ面白くないのだろうか。当たり前すぎる感じがするからか?(⑩参照) オチがないからか?(⑦参照) 意味不明になっているからか?(⑪参照)

 いろいろ可能性はあるが、少なくとも三つ、踏まえておかなくてはならないことがあると思う。

  • 自分にとっての「面白い」の形がわかっているか
  • 書いているあいだじゅう、面白く書こうと思えているか
  • 見栄を張っていないか

 自分自身が何を好んで何を面白いと思うのか、それがわからないことにはどうにもしようがない。書く前に、他の人の作品などに対してどう感じるのかを自問自答した方がいい。目指すものがわからなければどこに向かって努力したらいいのか定められない
 面白さには種類がある(面白いブログ記事とはなんだろう)。人それぞれ琴線は異なっているから、面白いと思うものも目指すべき面白さも違う。なのでまずは自分のことを知る必要がある。

 そして肝心なのは、面白さは面白くしようと頑張ることで生まれるものだということだ。書いてみたら勝手にそこに生まれているというものではない。そう表現する人もいるかもしれないが、それは本人がそう思っているだけで、実際には絶えず面白くせんとする意識が働いていると思う。
 一文一文に気を配って、この言葉の方がいいか、こっちの順番の方がいいか、と考える。一通り書いてから推敲段階で練ってもいいが、いずれにしろ面白くするための積極的な努力が必要だろう。

 最後に、余計な見栄を張っていないかどうか。変な背伸びをすると、それは大抵読み手に見破られるし、自分自身が後で痛々しさに耐えられなくなったりもする。要らぬ見栄のために正直で素朴な文章を書けなくなり、どこかで聞いたような没個性な文章になる可能性もある。
 格好をつけてみせるという面白さの形もあるので、そういう面白さを追求するのならば何も問題はないし、そうであれば自他ともに面白く読めるものになるだろう。そうではなく自意識が余計なことをしている時には、不自然で神経質な語りになってしまいがちなので注意が必要である。

 なお、自分で読み返す分には面白いけど他の人にはウケない、という悩みもあるだろうが、それに関しては私は処方箋を持っていないので何とも言えない。

ブログの書き方ド下手問題⑮~敬体が下手くそ問題~

まず「面白さ」自体、多様なものである。面白い人というのが様々いるように、面白い文というのも様々だ。その中から、自分が表現したい面白さに照準を合わせる必要がある。私が私として表現したい面白さとは、どういう意味での面白さなのか。

独り言なら自虐はそのまま滑稽味に転換できるのだが、誰かとのやり取り風の流れで自虐を使ってしまうと相手を困らせることになりかねない。その上、うまくやらないと相手の話に気遣いが足りなかったかのような構図を作り出してしまうこともある。それは非常によろしくない。うまくやらないとと書いたが、そもそもうまくやる余地などというものがあるのかわからない。

書き続けることができません

⑭ネタの管理方法がわかりません

 はじめに言ってしまうと、この悩みには答えが出ていない。私だけでなくみんなが悩み続けている。ただ、なぜ答えが出ないのかを考えておくことで、無用な混乱はある程度避けられるだろう。

 文章を書き続けるならば、書くネタを十分に抱えていく必要がある。それがうまくできないと、書きたい気持ちはあるが書くネタが何もなくて途方に暮れるということになってしまう。単に工夫の不足が引き起こしていることであっても、自分の発想の貧困さを責めることになってしまったりする。それは不幸な話である。
 そもそもネタというのは何なのか。それがまずもって難しい。創造の発端になるものや創造の妥当性を支える根拠になるもの、創造の方向性を決める思想となるものなど様々ある。はっと閃いたが行き先が定まらない思念全体が曖昧に「ネタ」として認識されることになる。
 というのも、書き物というのはあまりに自由なのである。物理的に何かを作り上げなければならないならば、それに関する情報や発想は明確に「どの段階に関わるもので、どう役立てるべきか」が定まるだろう。しかし書き物はあらゆる事物のあらゆる段階についてあらゆる切り口で書くことができてしまう。なので閃きや情報がその後どう使われるべきかが一向に定まらない。そうなると整理もつかない。
 ブログという形態がこの悩みを加速させる。論文と違って何でもネタにしていいし、どう料理してもいい。なので全てが素材になってしまうし、素材の活かし方も無限の広がりを持ってしまうのだ。

 理想を整理してみよう。

  • ネタは無限に湧くので、無限に扱える必要がある
  • ネタはそれぞれ育つので、後から編集できた方がいい
  • ネタはすぐに逃げてしまうので、瞬時に記録できないと困る
  • ネタを書き表した文言は曖昧なので、多角的に探し出す術がほしい
  • ネタ同士で化学反応が起きるので、ネタの順序を任意に入れ替えできてほしい
  • ネタは複数まとめて使うことがあるので、ピックアップして関連付ける機能があるといい

 100パーセント「ネタの扱い」に絞ってもこのくらいの要求がある。その上、実際に文章を書くツールと一体化するかどうかという問題もある。文章エディタにネタのストッカーをくっつけるべきかどうか。
 ただ、ネタというのはほとんどが日の目を見ることなく水底の澱になっていくものである。思いついたはいいがついぞ使い物にはならないネタに、どの程度の存在感を許容するのか。さっさと削除してしまいたい人もいれば、万が一の可能性を信じて生きたものとして大事にしたい人もいる。何らかの尺度で自動で新陳代謝してくれたらいいなと思う人もいるだろう。
 完璧なツールや方法論はいまだこの世に存在しない。部分的に要求を満たせるシステムを工夫して作っていくほかないのである。

 だが、方法に迷って手が止まったりネタが散逸したりするくらいなら、普通のノートを買ってきてそこに全部書いていけばいい。デジタルならただのテキストエディタでもいいだろう。通し番号でもふっておけば後から活用も容易だ。システムづくりに振り回されることを避け、不便はあれど混乱はしない素朴なやり方を貫いてもいいのである。

ブログの書き方ド下手問題④~「書く」ための発想とは~

ネタの位置づけと扱いは複雑で流動的になり、書くにあたって実際にどう使うかが決まる瞬間まで整理がつかない。ネタをどう育てていけるかがわからないのである。ある程度整理できたとしてもそこからどこまでどう膨らむかわからないのに、整理すらできないとなるとひとつひとつがまるで宇宙か何かのように途方も無い存在になってしまう。

ネタとは増え続けるものである。核となるものが新たに発生するし、既に存在しているものからいくつにも分岐する。何かを見て何かを思ったということがもうネタとなり得るわけで、そうなると生きている間じゅう、ネタにしようという意識が働きさえすればそこにネタが生まれることになる。

ネタには生死がある。分岐した先同士に矛盾が生じて丸ごと扱うことができなくなることもあるし、環境や心境に依存した発想はその前提の変化によって意味をなさなくなる。しかし、矛盾があること自体、あるいは環境や心境に依存していること自体をネタとして全体を書くことは可能であり、そうなるとネタは生き返る。産業ではあり得なくとも、表現ではそういうことが可能になる。

⑮ていうか書くの面倒くさくて捗らないっす

 書けそうなネタがあるのに、それに着手するのが億劫で進まないということはしばしばある。
 面倒に感じる理由は様々ある。もしも生活が大変で疲れ切っているから億劫だということなら、それは考え方だけで改善するのは難しいかもしれない。書き物が自分にとってとても大切なのであれば、疲れる前の早朝などにまず書く時間を取るという工夫はあり得る。あまりにも環境が理不尽で人間的生活を送れていないならば、それはもはや書き物がどうこうの次元の話ではなさそうである。
 そういう外的要因で書けなくなっているのはここでは解決しようがないが、ただ漠然と「なーんか書けないんだよなー」と思っているだけなら考えようがある。

 まずそもそもの話、まだ文章になっていない思念を言葉で表現し、自分以外の人間が読んで理解できるように構成を拵え理路を整えるというのは、ふつうに面倒くさい仕事である
 いきなり「文章を書く」ということを考えると、その億劫な工程を脳が察してイヤイヤと拒み始める可能性がある。なので、書けるところ、整理できるところからちょこっと進めてみて、少しずつ勢いをつけるという工夫はよく言われることである。
 勢いさえついてしまえば、何に引っかかっていたのかもわからないほどスムーズに進んだりする。よくあることだが、いつも不思議だなと思う。

 もう一つには「書けそうなネタ」に対する誤解の問題がある。書けそうなネタを前にして、頑張れば書けるはずだと思っているから、それが進まないことを「やる気が出ない」と解釈してしまう。しかし、本当にそれは書けるはずのネタなのだろうか?
 あまりよくないメモとして多いのが、「○○について」的なものだ。その○○に自分は関心を持っているのだから、何かは語れるはずだと思う。実際すいすい書けることもある。けれども一向に進まないことが少なくない。メモした時は絶対に書ける、こういうことを書こう、とまで思っていたのに何も書けずにお蔵入りしてしまう。
 なぜかと言えば、そのネタに語りのベクトルがないからである。何かを書こうという時、ふつうは経緯と変化の経験がそこにある。何かを見かけて、驚いたことがあったから(=認識が変わった)、書きたい。何かを考えていて、重要なことを思いついたから(=解釈が変わった)、書きたい。何かに悩んでいて、書いてみたら何か気づくかもしれないと思ったから(=行動が変わった)、書きたい。
 なので、例えば「~~と出会って……になった」的な形にして経緯と変化を含めないと、ネタのメモとしては成立していないと言っても過言ではないかもしれない。もちろん、端的に書いたメモでもそこからまざまざと経緯と変化を脳裏に呼び起こせるなら問題ない。そうでないなら、「書けそうなネタ」自体に欠陥がある可能性を考えたほうがいいだろう。

ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~

次々と文章が生まれて流水のように書き連ねていられる時というのは、書けば書くほど新たに経緯と変化を発見している状態なのではないかと思う。書き始める前には気づいてもいなかったことに、書いているうちに思い至る。するとここに重要な変化があったのだとわかって、そのことを書かずにいられなくなる。そうして書くと再び別の変化に気づいて、そのことを書き足していく。そうやって文章が文章を生んでいく。

メモするにあたって「これ」を名詞ではなく状態の変化として書き留めておくと後から文章にしやすくなるのではないか。しばしばブログ記事のタイトルに「○○したら△△になった」という形の表現が見られるが、それは要点としてとてもよくできていて、ただ読者を惹きつける手法としてだけではなく、後日文章を書く自分を惹きつける言い回しとしてメモに使うと有効に思える。変化を引き起こした事物そのものではなく自分自身の体験・体感にフォーカスしたメモを作るのである。

⑯どうも書いたり考えたりする気力が湧きません

 色々原因はあり得るだろう。例えば以下のようなものだ。

  • 暮らしが凄絶である
  • 暑さ寒さなどで身体にストレスがかかっている
  • 何か気にかかっていることがある
  • 他の人の話を聞いたり読んだりする頻度が減っている
  • 書いていないから書けない

 ⑮でも書いたが、まず生活が大変だとどうしても難しいものがある。「仕事や家族から自分の心を守るためにこそ書く」というふうに奮起できる人もいるが、基本的には疲れ果てていれば脳はそれ以上動いてくれない。
 疲れる前の時間を確保するか、大変な状況が一時的なものならそれが去るまで耐えるか、あるいは勇気を出して(しかし後先を考えて)環境自体を変えるか、といったことが必要になるように思われる。

 あとは体調の問題もある。風邪をひいたとか頭が痛いなどの明らかな不調でなくても、慢性的にストレスがかかっていて身体が悲鳴を上げていれば知的活動も難しくなる。身体の訴えを一切無視して書き続けられる作家もいるが、それは代わりに寿命を削っているように思えてならない。なのでなるべく快適にして心地よく過ごすのは思索や執筆のためにも大事なことである。
 近年のような凄まじい酷暑や激しい天候の中では、年中同じペースを維持するのはそもそも無理な話にも思える。プロは金を積んででも快適さを手に入れる必要があるだろうが、これはふつうの人のブログの話である。過ごしやすい気候に移った時にアクセルを踏み込めるようにネタだけ集めておくなど心がけるとよいかもしれない。

 気がかりがあると集中できない。それは将来に関わる問題もあれば、他にやりたいことがあるということもあるし、日頃の種々の悩みもある。書くことより優先順位の高いものがあれば、そちらにエネルギーを吸い取られるのは当然だ。解決して解消するか、切り分けて考えるように努めるか、いずれか選ぶ必要があるだろう。
 もしも書いて差し支えないような種の話なら、気がかり自体を記事にしてしまうという手もある。

 何かを考えるということは、ほとんどの場合自分が見聞きしたものへの反応として現れる。ということは、自分が反応し得るものを見聞きしなければ自分の脳は動かない。なので、ちょうどよい話題を積極的に取り込む必要がある。
 書けないとか考えが進まないとか考えている時、自分ひとりの世界に閉じこもりがちである。むしろ、本を読んだり新聞に目を通したりラジオを聞いたりテレビを見たり映画を観たり知り合いと話したり散歩をしたり旅行に行ったり、外の世界に接続することを心がけたほうがいい。そしてその場合には、外の世界のことにちゃんと意識を向けること。

 最後に、これが実は最も重要かもしれないが、「書いていないから書けない」ということがある。
 車にギアチェンジが必要なように、止まっているところから動き出すには力が要る。調子がつけば苦労なく動き続けられる。トップギアで走り続けられるのは、走っているからなのである。自分の実感として、そして他の数多の書き手の話からしても、文章の進みは車と似たものであると感じる。
 これは「毎日投稿せよ」という話ではない。目安としてそれを目標にしてもいいが、投稿するかどうかではなく、「文章を書くということに具体的に取り組んでいるか」の問題である。ネタ出しでもなくアウトライン整理でもなく、「文章を書いているか」。自動筆記を試して荒唐無稽になってもいいし、感情剥き出しの日記でもいい。とにかく「文章を書く」ことにおいて止まらない。そうすれば、その勢いで「書きたいことを書く」ことにも取り組めるだろう。

ブログの書き方ド下手問題番外編~漠然と無気力な件

書けていない時というのは大体「書いていない」。書くネタを意識的に探したりしているとかえってこの状態になりやすい。何をどう書こうかと考えるばかりで、実際に着手しないのである。箇条書きで要素は並べてみるかもしれないが、他人に読ませられるような形の文章を書かない。既に書きかけのものがあるからその先のことはとりあえずメモだけで、なんてこともしばしばある。

ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと

原因が疲労であれ内圧の低下であれ、ギアを5速に入れてビュンビュン走っている時は一瞬で書けてしまうような文量も、一度停止して1速から入れ直さなければならないとなると果てしないかのような時間をかける羽目になる。せめて2速くらいまでの減速に留めて、停まりきらないで気力を維持・回復していきたいところだ。

⑰書けるときと書けないときのムラが悩みです

 書けるときはすいすい書けるのに、書けないとなったらさっぱり書けない。なまじ書けるときには書けるということが書けなさの苦痛を増している。そういうことはある。ひょっとすると、割と「あるある」なことかもしれない。
 自分の内面や考えについて書こうとしている時にはよくあることだが、一文書いてみて、そこから次にどう進めばいいのかがわからないということがある。双六の次のマスがないような状態だ。途方に暮れて画面を見つめて、何も進まないまま時間だけが過ぎていく。
 にらめっこしているうちにはたと何かを思いついて先に進むということはあるが、毎度それを待っているのは辛いので、対処法的なものがあった方がいい。

 ひとつは、視点を引いて文章全体を考えてみることだ。
 この文章は、いったい何を書けたらゴールになるのか? 自分は何をしたくて書き始めたのだったか? 達成すべきポイントを明らかにすることによって、文章が通るべき道が見えてくる可能性がある。
 この「ゴール」とか「達成すべきポイント」というのは、「結論」という意味ではない。逆に「結論を出す」をゴールにしてしまうと、結論が出なければゴールできないということになる。それはそうだ。しかし全ての考え事に結論が出るわけではない。もっと柔軟に、「悩みを言葉にする」とか「とりあえずの仮説をひとつ見出す」とか、そんな感じでもいいのである。

 もうひとつは、なんでもいいから書いてみるという力技的対処法である。続きが書けなくなったら「どう書き進めればいいのかわからーん」とかそこに書いたっていい。全然妥当そうではない仮説をとりあえず書いてしまってもいい。思いつく限りフリーライティングしてみる。
 ああでもないこうでもないと書いているうちに視野が広がり、閃きを得ることがある。立ち止まってしまった地点の、そこまでの流れの方がまずかったことに気がつくかもしれない。最初から書き改めて表現を変えたらスムーズに流れるということもある。

 文章が止まってしまう時、考え事の粒度が変に大きくなってしまっていることがある。その全体を考えてからでないと言葉にして書かない。そうすると(しばしば書かないということ自体が原因で)その全体が考え終わらないので、一向に進まない。もっと砕いて小さい単位で「とりあえず書く」をしてみれば何の問題もなく、すいすい書けている時は自然とそうできていたりする。
 経験上、これはその日によって調子が変わってくる種のものに思える。なので、なんか進まないなと思ったら、意識的に考え事のサイズを砕いて細かくするようにしてみるとよいかもしれない。

流れで書けない時

流れで書けないという時は、あるマスに立っても次のマスがわからない状態である。代わりに離れた場所にある別のマスの存在をふと察知して、そっちにワープしてしまう。そしてワープした先でもまた次のマスがわからない。たまにひとつふたつ進めることもあるが、繋げられるのはせいぜいその程度で、振り出しから終点まで一本で繋がるようにはならない。

脱「運頼み」の道のり

一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。
どうしても書きたいことがあればメモしておいて未来の私に託しますが、そういう熱意に燃えているわけではない記事は、単に「記事の体を成すまで足す」ということで文章の形になっているに過ぎません。

問題は「書く流れに乗れる何か」との出会いが運頼みだったことです。人が読むことが前提の投稿記事を作って公開するとなると、公開するに十分な記事を作れる確率というのが大変に低くなってしまって、そのことにずっと苦しんでいました。続けられなくて潰したブログがいくつもあります。

書けるとはどういうことか

無意識に自分の足を引っ張っていることもある。文字を消すのは簡単なのだからとりあえず書いてみればいいものを、頭の中である程度のまとまりを見出してから書き始めようとしてしまう。この傾向というのはどうも日単位で変動していて、その変動に自分で気づいていないのだが、文章がすらすら出たり出なかったりというのはしばしば単純に「軽率に書いてしまうか、変に熟慮するか」ということが左右している。ある意味で体調の一種と言えるかもしれない。

⑱後で書こうと思っているうちにネタの鮮度を失ってしまいます

 今すぐに着手できなかったり、他に取り組んでいるものがあったりすると、「後で書こう」が発生する。たいてい実際に書ける量よりも「後で書こう」送りになる量が多く、書けずじまいで死んでいってしまうネタが多発する。
 これは実際問題仕方がない面もある。ひとりの人間が書ける量には限りがあるし、それを超えれば物理的に書けない。

 けれども、自分の悪い癖がネタの鮮度を余計に失わせていることもある。
 ⑮で詳しく書いているが、ネタのメモの仕方が悪くて時間の経過とともに使い物にならなくなってしまうのがひとつ。
 もうひとつには、完成するまでひとつの文章にかかりきりになる癖によって、他のネタに全く手を付けないで放置してしまっているということがある。

 閃いた時点で肝となる部分を書いておく、書き出しの部分を片づけておく、といったことができていれば、多少時間が経っても続きを書くのに困らないかもしれない。文章化を一切やらないでいると、どういう動機でどういうベクトルの文章を書こうとしていたんだったかをやがて忘れ、熱も失ってしまう。過去の自分から未来の自分への引き継ぎに失敗し、その企画は立ち消えになる。
 無節操にあれこれ手をつけていた方が、後で勢いを復活させやすいということはあるだろう。先に書いておいた文章は全没にして書き直すことになるかもしれないが、「何をしたかったか」さえ取り戻せればいいのだ。
 未来の自分へのパスをうまくやるということも、文章を書き続けるために必要な工夫である

×後で書こう ○今書くけど後で投稿しよう

存在感が大きいことは変わっていないが、書きだす取っ掛かりがもうわからない。最初にもやもやとあったイメージはどこかに飛んでいき、その時点で残したメモを見て今想像できる世界というのは最初のイメージよりずっと小さい。今書こうとするとそのメモに依存しすぎてしまう。当時は全体の中の部分でしかなかったメモが、時が経った今では残されているものの全体になってしまっている。

⑲後で書こうと思って書く機会を失ってしまいます

 ⑱と似ているがちょっと違うのは、こちらは「書けなくなる」のではなくて、書こうと思えば書けるかもしれないが、機を逸してしまうということだ。書けたはずの文章を書かずに終わってしまう。ネタの存在自体を忘れるということもある。それは勿体ない話である。
 特にSNSに何かポストしようとした時に、「いや、これはちゃんと文章にした方がいい」という判断をして別の場所に取っておく。その時点では文章にできる確信があった。しかしそのまま仕事に追われるなどして放置され、取っておいたことも忘れてしまう。

 すぐに取りかからないからそのままになってしまうのだが、これには仕方のない面もある。そもそも「SNSにポストしようとした」という時点で、大した切実さがないように思われる。言わなきゃ言わないでいいようなものなのだ。
 しかし良い閃きがあったはずなのにそれを逃してしまうのはなんとも惜しい。活用率が上がるに越したことはないだろう。
 対処法としては二種類の策が思いつく。ひとつは物理的な工夫、もうひとつは考え方の工夫である。

 まず、忘れっぱなしになることを防ごう。「後で書こう」の置き場を目に入る場所にすることだ。例えば専用のネタ帳を分けてしまうと見返しにくいということであれば、デイリーページなど「いつも見ている場」の目立つところに書いてしまう。あるいは、リマインダーをセットして見返す時間を取るというのでもいいだろう。
 あとは切実さを持つように考え方を変える手がある。例えばBlaugust(ブローガスト)のようなイベントに参加するとなれば、一日一本ペースでネタを発見しなければならない(別にそう「しなければならない」わけではないが、参加にあたっての気持ちとして)。そうすると書けそうなものに対して貪欲になる。今日のネタあったあああ!!とガッツポーズを決めて、家に帰って早速取りかかるということもできるだろう。みすみすネタをふいにしたら後悔する、という状況を作るのである

ブログの書き方ド下手問題⑭~「後で続きを書く」送りにして結局書かない問題~

まず目的意識が薄いという課題がある。別に言わなくていいことなのだ。しかし、言おうとしてみたらすごく重要な気がしてきたから後で深めたいと思った。けれども元々言わなくていいことだったからその後再び取り上げる機会がない。そうしてその多くを単純に忘れてしまう。

SNSに投稿しようとして思いがけず筆が進むのは、SNSに投稿するという前提が読み手や文体を決定づけるからだろうと思う。しかしそうしてすいすい書いた結果、時にSNSにそのまま投稿するには憚られる量または質のものができてしまうのである。


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