記事2026/08/22

ブログの書き方ド下手問題⑯~旅にならない文章を楽しんで書くには~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十六回。
 最近、文章やブログというものについて考える記事をいくつか書いた。

自分節の正体

 第十五回では敬体で書く場合に自分の記事がつまらないということを考えた。原因を一言で言えば「自分節が封じられている」ということであり、それならば別の種の「面白い文体」を開拓しなければという結論に至った。具体的には「戦略的軽薄」と表現した。
 しかしこれは不十分だったということに昨日気がついた。なぜ自分節が封じられているのか、自分節とは何なのか、ということの検討が足りていなかったと思う。

 常体で書きたいのに敬体を選択せざるを得ないと感じる理由について以下のように書いた。

常体で書けるなら結局常体で書けばよいとして、どうしても敬体でなければならないタイミングというのがある。それが先に挙げた「誰かの記事などに対して手紙的に書くような場合や何かを解説するような時、挨拶的な文章を書く時」だ。読み手の存在が強く意識されていて、失礼のないように、独善的にならないように、極力丁寧に書こうとしている。

 つまりは、他人宛的な性格の記事であるがために、自分勝手には書けないということである。その自分勝手ということを、前回は「滑稽味の追求」という観点で考えて、それがあまりに「自分のフィールド」に閉じている感じがするので他人宛としては相応しくないというふうに結論づけていた。
 それはそれであるのだが、それだけではなかったことに気がついた。それが昨日最後に書いたこと(且つその前から何度も書いてきたこと)で、昨日の記事では以下の部分になる。

いつも考えを書く時には、書いている間に自分自身が変化し、書く前と書き終えた後とで別人になっていることが多い。大体そのために書いている。だから、(解説や紹介の類を除いては)書き終えた時点で別人になりそうにないことは基本的に書かない。

 この「ブログの書き方ド下手問題」シリーズはその典型で、書く前には問題についてその全貌がわからず対処法も思いつかないでいる状態なのが、書き終えた時点ではそれらがわかりその問題にはそれ以上悩まされないという状態に変身する。必ず的確で完全に解決するというわけではないにしても、明確に「書く前」と「書いた後」に違いがある。

探検のない業務としての文章

 誰か宛に書くという時、その相手に対するメッセージ的なものが既にある。それを表現して伝えるために書くのである。独り言的な文章ではない。となると、自分が別人に変身することを願って探検するような文章にはならない。
 普段ほとんど何の苦もなくすいすい文章を書いている人が、本を書くとなると大変に難儀してげっそりしているということはよくある。誰しもそうなるのかもしれない。これはつまり、文章を書くということが、自分自身が何かを見つけ出すための探検の旅なのではなく、既に自分はわかってしまっていることを他人もわかるために整備して歩く業務になってしまうからであろう。自分はもうわかっていることについて、それを知らない人の立場を考えて語りを構築していくというのはおそろしいほど気力を要する。
 しかもそれを面白くしなければならないとなるともはや曲芸である。

 自分が敬体で書いている時につまらないというのは、その曲芸をこなせるような技術が自分にないということがまずある。そして自分にとって探検でないがために書いていて自分が面白くないことがある。その面白くなさというのは文章のテンションとして表に現れてしまうものだろう。

  • 読み手にとって面白くする技術がない
  • 書き手として書いていて面白くない

 自分の記事をつまらないと思うというのは、自分で読み返したい気持ちにならないということである。自分にとっての発見が特になかった上に、他人に見せる作品としても完成度が低いのだから、そんなものを見返しても溜息しか出ない。

 前回考えた「戦略的軽薄」というのは、作品としての完成度のほうを上げる手がかりということになる。他人宛の文章を敬体で書かねばならないことは必ずあるのだから、その努力はやはり必要だろうと思う。
 ただそれは基本的に作家の仕事という感もある。ブログ記事を書くにあたってそのような業務的苦しみと戦うことになるのはそもそもおかしい。書いていてつまらないということ自体を解決したほうがいい。

整理の過程をひとりで済ませない

 昨日の面白いブログ記事とはなんだろうでひとつの光が見えた。本編として書いたことは、「前から考えていたこと」であり、それをそのまま書いても自分には発見の見込みがない。しかしブローガスト期間ということで「それでも書かないよりは書いたほうがいい」という思いが働いて書いた。自分が変身できそうなネタというのはそういつでもあるものではないので、探してみても無い時は無いのである。
 果たしてその記事の内容そのものは自分の中に新たなものは生まなかったのだが、得るものがなかったわけではない。整理したことで認識の全貌が見えて、自分の判断がそれとずれていることに気がついた。不思議にも、自分の考えと自分の思いに矛盾があることが見えたわけである。結果的にビフォー・アフターにギャップが生まれた。

 やったことは「人に伝えるための整理」であって探検ではない。なので思いがけないものが見つかったというのでもない。しかし整理した結果から自分の認識が変更された。
 これまでも、誰か宛っぽい文章を書いた場合にも多少の手応えを感じることはないではなかった。それはつまり、人に説明するうちに整理されて、それが自分に影響したということである。逆に、自分ひとりで予め整理しておいて、それをただ説明するというのは辛いことになりがちだ。
 つまり。几帳面にひとりでちゃんと認識を整理しておくということが、ブログ記事を書き続けるという営みを考えるならば、逆にマイナスに働くかもしれないということが言える。
 毎日ブログを書いている人はたくさんいる。毎日書くためには余暇を書くことに費やす必要がある。必然的に、考え事の時間を別に取ることは難しくなり、考えたことをそのまま公開してしまえということになる。自分のための探検の文章もそうだし、誰かのための解説もそうである。認識の整理は解説を書く工程に吸収される。そのようにしている人は、業務的苦しみに囚われることは多分そんなにない気がする。

 止まることなくブログを書ける人は、考えが整理されているからそうできるのではない。考えを整理していないから、今から整理しようとして文章という副産物を生み出せる。 そう言ってしまうことも可能かもしれない。
 その意味では、誰か宛の文章を書くにしても、あまり事前に考えを整理しないほうがいい。というか、整理の過程を文章の形でやってしまう。もしかしたらその相手への応答としては変なものになるかもしれない。それでも面白さが生まれたらそれでいい。ブログ文化というのは、自分の記事に反応する他の書き手がそのような形で返してくることを許容する文化であったのではないかとも思う。
 もちろんメッセージが明確にあるならそれが形になるまで整理に挑戦し直す。メッセージを伝える用はなさない失敗策も、別の何かでは使えるかもしれないわけで、副産物として素材がどんどん生産されていくことになる。全部文章にしておくのがいい。その上で、それをアウトラインなんかで整頓しておけば、いちいち読み直さずに済む。逆にアウトラインから文章化するのは実は案外難しい。それについては前に書いた(ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~)。

 探検の旅が楽しいのは、発見という臨場感があるからである。「今まさに」感があるということだ。ならば整理の工程にも臨場感があればいい。「今まさに整理している」ことを書き表すわけである。
 事前には、それは変身の見込みの薄い「作業」に感じられたとしても、何かを「今まさに」しているという中では必ずハッとすることがひとつやふたつある。文章に書きながら整理をしていればその感動を直ちに表現に繋げることができる。そうすることが、どんな書き物をも新鮮にする秘訣かもしれない。

(一応念の為に断っておくと、これはあくまで「ブログを書く」ことの話である。本を書くとかその他の種類の文章を書くとかではまた別の考えが必要だろう。)