属人性および非社会性、そして「ここにいる」ということ
前回の記事(自分が嫌い問題/自分らしさ/自分くささ)で自分語りと自己開示について書いたので、それに関してまた自分語りと自己開示をしてみよう。(今月はなるべくたくさん書こうとしているので、普段なら敢えては書かないことをとりあえず書いてしまえというノリでいる。)
一応定義というか、ここでの意味を明らかにしておく。
- 自分語り=自分についての語り
- 自己開示=自分の正直な語り
- したがって「自己開示のない自分語り」もあれば「自分語りではない自己開示」もある
自己開示のない自分語りというのは、例えば嘘で塗り固めた自慢などである。延々自分について喋っていたとしても、何一つ自己開示はないということは割と普通にある。
自分語りではない自己開示は、いわゆる「面白い文章」は大体それによってできていると言っていいだろう。その人のオリジナリティをそのまんま繰り出すことによって、曰く言い難い魅力がそこに生まれてくる。もちろん「面白い文章」は技術によっても作れるので必ず自己開示が伴っているわけではないが、そのあたりの違いは説明しなくともなんとなく感じられるだろう。
ところでもう一つ「自分を語る」ということに関して考えるべきカテゴリがある。「個人情報」である。
この人の名前は何で、性別はいずれで、どんな容姿で、どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、どのような経歴があって、家族構成はどうで云々といったことだ。
それらはその人を構成する要素なので、その人の全体を語るならば除くわけにはいかないものではあるだろう。芸能人なんかはそれらの情報のみによってその人の価値というものを生成している感もある。あとは「信用に足るか」を判断するにあたっても重要な情報となる。
で、私個人の話をすると、これらについて語る気は全然ない。ぜーんぜんない。自己開示にあたって話の前提としてどうしても必要があって喋ることはなくはないが、積極的には公開しない。なので、何百本だかの記事を書いて何十万字だかの自己開示を積み上げても、私が何者であるかは大して明らかになっていないと思う。
では私は私自身の何を語っていることになるのだろうか。それはつまるところ、「個人情報」がどうであろうが変わらない個人性だろう。属人性と言った方がよいか。いわゆる個人情報というのは「自分が」「何に」属しているかの話だが、属人性というのは「自分に」「何が」属しているかの話である。個人情報を属人的と言うかどうかは文脈によるので、厳密な区分というのではない。
社会において意味を持つのは個人情報の方だ。だから社会に対して何かをアピールしたい、あるいはアピールする必要があるならば、個人情報をせっせと喋ることになる。それが社会人というものである。私が心の内で何をどう解釈しているかという属人性は、社会では何らの意味も持たない。
先ほど芸能人の話を出したが、芸能人が主義主張の話をした時にそのこと自体が拒否されることがあるのは、芸能人という枠から離れたことをしだしたと見られるからだろうと思う。お前は芸能人という型に大人しく収まっていろ、という圧力が彼ら彼女らに重くのしかかっている。
芸能人という在り方を一方の極とするならば、私は反対側の極にいたいということになる。社会ではないどこかに漂っている不定型のもの。つまりは「こころ」の世界ということになるだろう。人同士が個人情報を持って繋がれば社会を形成するが、「こころの繋がり」というものはよく言われることであって、それはつまり個人情報を脇に置いて繋がった状態であろう。
千利休の茶室では誰しも身分を脇に置かされたわけだが、それは個人情報を互いに知っていながら、努めて脇に置いているという関係だ。インターネット上では、個人情報をそもそも出さずに、しかし一個の人間がそこにいることを「アカウント」ないしは「ハンドルネーム」によって互いに承知して繋がることができるわけである。
別に「そのような関係のほうが良い」とかいうことを言いたいわけではない。単に非社会的な関係とはそのようなものであるというだけの話だ。ただ、「その方が良い」とは言えないにしても、「それもあった方が良い」とは言える。
自分が持つ関係性の全てが社会的である状態は基本的に辛く苦しい。社会的に上手くいっていればその苦しさを見ないふりもしていられるが、何かまずいことが起き始めると忽ち地獄の苦しみに苛まれることになったりする。社会的繋がりは、自分が社会での価値を失うとともに全てなかったことになるおそれがある。婚姻関係ですらそうだ。こころの繋がりを重視していない関係ならば、経済的にうまくいかなくなると同時に破局を迎えかねない。
なので、非社会的関係はあった方が良い。それは別にインターネットに頼る必要はない。社会を通じて知り合っても会心の友になることはあるし(『釣りバカ日誌』はみんなの憧れかもしれない)、趣味の場だってそこらじゅうにある。昔あった(らしい)文通というのはその点すごい仕組みだと思う。今はSNSで不特定多数と文通状態だが、SNSの難点は結局そこ自体が社会であることだ。Twitterができた当初は非社会的な緩い繋がりだったが、もはやその頃には戻れない。
ということでインターネットに頼る必要はないが、しかしインターネットというものがあるのだから、インターネットにそのような関係を見出すことができてもよいのである。とはいえ、今言ったようにSNSはもはや社会なのでSNSで繋がりを求めるのはなかなか難しい。個人情報を押し出しに押し出して社会性全開で運用している人がたくさんいる。別にそのような人と繋がりたくはないという人もいるだろう。私もそう。
では、どんな人と繋がりたいかといえば――正確に言えば「繋がりたい」はちょっと違うのだがそれはさておき――つまり非社会的に漂っている人である。仕事用と兼ねているアカウントならその分の個人情報は伴っているだろうが、しかしそれでもそれ以上には社会性を押し出したがらず、"それにもかかわらずSNSにいる"とか"それにもかかわらず世の中に向けてブログを書いている"ような人だ。世界に向けて己をひらいているが、社会とは距離を置いてゆらゆらしている人々。社会に疲れている人同士で繋がろうと言って結局社会を作り出してしまうようなタイプではない、ひとりで揺蕩うクラゲのような人々である。
そのような人たちが繋がりたいのは、すなわちそのような人である。なので、そのように存在しているということ自体によってそこに繋がりができる。
私が求めている繋がり、というか「吸いたい空気」はそのようなものであり、それ以外には求めていないので、私は非社会性のみによってここにいたいと思ってこうしている。個人情報を出せば出すほど、意識的にも無意識にもそれを何かの取っ掛かりにしてしまうということが発生する。
非社会的というのは「社会性が無い」とイコールではない。別なものがあるのである。その別なものを一生懸命作ることを今人生の楽しみとして生きている。
私が何者であろうがこれを読んでいる人にはどうだっていいことだし、非社会的な豊かさにそういう情報は必要ない。そのことをここで実証しようとしているのかもしれない。