記事2026/08/20

KJ法に自分の言い換えを添えてみる

 今更ながら、川喜田二郎著『KJ法――渾沌をして語らしめる』を通読した。
 前にも一度ぱらぱらとは見たのだが、その時はもっぱら図を追ってその周辺を多少読むというような、つまりは具体的な手法だけを「最低限知っておかないとまずいであろうこと」として確認したに留まっていた。なお『発想法』『続・発想法』はだいぶ前に一応読んではいる。

 五百八十頁に及ぶ大著で、そういうものを読み通すのは私にとってはかなり大変なことだしやり終えられた経験もそんなにない。前にこの本(正確には、前に手に取ったのは『川喜田二郎著作集第5巻』)を読んだ時も、はなから無理そうだったのでつまみ食いだけして済ませてしまった。
 しかしながら今回は大した苦もなく一気に読んだ(文量分の絶対的な時間はかかった)。非常に面白かった。KJ法という手法について一体何をそんなに書くことがあるのかという気持ちがないでもなかったのだが、頭からきちんと読んでみると、およそ六百頁にわたる全ての文に重要な意味があると感じられ、また終始親切丁寧な語りであり読んでいて混乱することもなかった。
 そもそもKJ法とはどのような文脈のもとに何を目的として生まれたのかということにかなりの頁が割かれている。要するに、などと言って要約してしまうことはしたくないのでここでそれをまとめることはしないが、西欧由来の機械モデル的価値観とそれが構築した管理社会がもたらしている惨憺たる現状を打破して国際平和を実現する、その具体的な道筋を形にした壮大な試みであったということを踏まえてKJ法というものを見て、それまでの己のテクニック的見方が如何に浅薄で愚かしいものであったかを思い知った。
 様々に感動があったのだがそれを語るのはひとまず別の機会にする(語らないかもしれない)。

 今回の本題に入ろう。前に読んだ(見た)時もそうだし今回もそうだったのだが、KJ法の手法の部分を理解しようとした時にいちいちある種の馴染まなさに悩まされた。この時代のもの全般に対して起こりがちな摩擦で、それはつまり「命名の仕方が自分のイメージを妨げている」ということだ。
 当時の人の命名が下手とかそういうことではない。特にKJ法に関する各用語は、多くの人と共に議論が重ねられつつ「これがよい」と納得されて残った表現なわけである。つまるところ、生きる時代や身を置いている環境の違いによって語彙が持つイメージが違ってしまっていることで、当時のその世界の人には通じることが今の私にはいまいち伝わらないということが発生するのだと思う。

 で、時々書いているのらてつ語への変換ということとはちょっと違うのだが、自分の頭と語彙との間の摩擦を減らす潤滑油としての言葉を挟むということを試みた。

正式な用語 潤滑油表現
思想としてのKJ法 KJ道
KJ法 KJ展開A型:発想法
KJ法A型図解化 図解フェーズ
KJ法B型叙述化 叙述フェーズ
探検ネット(花火) KJ展開B型
探検型花火 KJ展開B型①:取材法
統合型花火 KJ展開B型②:統括法
考える花火(実務型花火) KJ展開B型③:決断法
花火日報 KJ展開B型④:記録法
ミニKJ法 志結束法
タッチネッティング データサーキュレーション

 読んでいて、KJ法という言葉が指す範囲が広すぎること、A型B型という表現の使い所が自分の直感と合っていないこと、「KJ法」「探検ネット」「花火」という命名の統一感のなさに私は苦しめられた。

 図解化と叙述化がなぜA型B型という言い方にされているかというのは本の中に記述がある。基本的には図解化→叙述化の順番で進むものだが、逆向きに作る場合があるとか、逆向きでやった方が向いている人がいるとかの理由によって、順番を固定せずに表現できるためということだ。AB型とかBA型と言い表せるということに意味がある。
 そのことに納得はしたのだが、頭で納得したからといって体感が変わるわけではない。自分の中ではそれは単純に「図解→叙述ルート」「叙述→図解ルート」とでも言うことにして、A型B型という言い方からは「対等な二つのゴールへの分岐」的な印象を私が勝手に感じてしまうためにそのニュアンスを取り除きたい気持ちがあった。どっちかを選べるのではなく、どちらも必須なのである。あくまでどちらが先かの話なのだ。

 「KJ法」という言葉に比喩は何もないのに対して、「探検ネット」と「花火」は同じものに対して異なる二つの比喩を重ねて使っている。「ネットのように」「花火のように」というニュアンスはよくわかったのだが、どちらかというとKJ法と揃えてKJ法と探検ネットがきょうだいであることを明確にする方が私としてはわかりやすい。愛称は比喩でもいいが、硬く正確な本名が存在してほしかった。
 ということで、こっちにA型B型を用いて、且つ「展開の仕方の違い」であることを明確にするべく「KJ展開」と表現してみることにした。
 なお四つの花火は厳密には並列するものではなく、「探検型/統合型」と「考える花火/花火日報」とで層が違うのだが、その辺は自分が分かっていればいいとした。

 こうしてみると用語の位置づけが自分の中で整理できた感じがした。
 これらは「自分語への言い換え」ではない。潤滑油表現も自分の言葉という感じはそんなにない。自分の世界に取り込むための翻訳ではなくて、自分が向こうの世界に入っていくための手がかりである。単に「理解のためのメモ」が名詞の形を取っているというだけのことかもしれない。
 これが妥当かどうかということを考えると、ニュアンスのずれに対して欠陥を指摘することはいくらでもできるだろうが、別にこう言い換えたほうがいいということを提案しているのではない。単純に、自分はこのような足場をKJ法という建物の横に組んでみたということを書いてみた。