茶の間とは:個人的な所感、なんでもないような物事を綴るミニエッセイの場です。
茶の間2026/09/06

ふみつけ

自分が浅はかであるかもしれないことに怯えて言葉を慎重に選び内省を繰り返している人というのがいて、それは苦しそうだし、蛮勇がなさすぎるがゆえに多くの他者を巻き込むような大きな何かをなすことも難しいかもしれないが、そういう人についていきたいなと思うし自分もそうなりたい。なりたいと思うのは簡単だがなるのは容易でない。

言葉を慎重に扱っている人に対して、何かに慎重になっているらしいことは誰でもわかるが、何に慎重になっているのかを察するのは簡単なことではなく、それを台無しにするようなことをズバッと返すみたいなことが平気で行われる。それは台無しにしてやろうと思ってなされるわけではない(時にはそういう場合もなくはないが)。

慎重な人が尊重しようとしているもの自体が他の人に見えていないから、何を踏みつけにしたのかわからない。何もない空間に足を置いただけで、そこに本当は何かがあったなんて知りようもない。足の裏でも感じ取れない。
慎重な人たちは謙虚だが、大抵は不満をそこで見せる。返答までの時間がいつもと違ったことになる。感情的になってちょっと速く反応したり、逆に感情を抑えるのに労力を費やして間ができたりする。
相手の無遠慮さにも慎重に返そうとするが、それがあまり伝わらないことが気の毒である。しかし徹底して自分自身が浅はかでありたくないのであって、相手に対して相応の無遠慮さを突きつけて復讐してやろうとは思わないのがその人たちの尊いところだ。

慎重な人たちは自分の尊重が踏みつけにされることに悲しくも慣れすぎている。うっかり戦おうとして自分が理性を失ってしまうことの方が、踏みつけに耐えなければならないことよりきっとおそろしいのだと思う。
自分は勝手に傷ついたが、しかし相手には相手の知性があって、それはやはり尊いのだと、そのように解釈して傷を癒すことに長けてしまっている。傍から見ていると、その人を傷つけている人間を相応にぶん殴って叩きのめしたいと感じるが、それで争いが起こることをきっと全く望んでいないだろうから、じっとしているしかない。

無神経さには無神経さで対抗したほうが、柔らかいところが傷つくリスクは減っていくのだろう。しかしそうやって賢明に武器としての無神経さを身につけると、慎重な人たちの尊さはますます不可視化されてしまう。そんな世界は嫌だと思う。
でもリアルではそのようにしなくては生きていけないこともあるだろう。リアルで友人関係にある人がそのようなタイプである時、何を顔に貼り付けてやり過ごしているかを知ることができる。
インターネットの知り合いは、その人たちが普段どのように身を守って過ごしているかわからないし、もしかしたらその状態で関わったらその人の尊さ慎重さ柔らかさに気づけないかもしれない。だから、生身の利害関係と切り離されたインターネットでそっと打ち明けてくれる尊さをありがたく思う。
現実世界で見えているより、多分そのような尊い人は多く存在している。そう信じることができる。同時に、尊さをすっかり覆い隠してしまうほど武装している人がたくさんいるだろうことも感じる。それは悲しいことである。