『書物・情報・読書―知識整理と活用の技術』
紀田順一郎著、出版は出版ニュース社、1972年。
50年以上前のものということになるが、非常に刺激的で得るところの多い本だった。当時の情報整理術ブームに対する痛烈な批判を含み、加藤秀俊の『整理学』と続けて読んだせいでちょっとだけハラハラしたりした。
50年前の空気は頑張って想像するしかないのだが、おそらく、知識人の気分としては今のNotion・Obsidianブームから生成AI革命にかけての状況を私たちが苦々しく思っているのと近いものがあるのではないか。紀田順一郎氏は、ノートをカードに変えスクラップブックを台紙に変えたところで自分が頭を使わなければ何も意味はないということを強く指摘しており、今Obsidianを使ったツェッテルカステン風な何かや生成AIによる秘書風な何かのノウハウが溢れているのを眺めて感じることもそれと同じだなと思う。頭を使うことから逃げる方法を延々探している月日の間、自分で頭を使っていたらどれだけのことができたか。
誤解なきように言っておくと、ノウハウや道具に意味はないと言っているのではない。紀田氏はカードと台紙を使っているし、私もNotionやObsidian、生成AIをすごいものだと素朴に感心している。単に、それらが自動的にわれわれの悩みを解決してくれることはないという話である。よりすごい方法論を見つけ出せば自分が何も考えなくても自動で仕事や人生が整うということはない。
もともと情報整理は一つの技術でしかありえず、できるならコミットせずにすませたい"必要悪"でしかない。しかし、今やその技術が私たちの知的生産の性格をさえ規定しはじめているのではないだろうか。(p.5)
私自身その傾向は否めないのだが、情報整理という営みそのものに何か憧れが発生するというのは本末転倒だろう。整理は目的のための手段に過ぎない。そしてその目的とは、梅棹忠夫が『知的生産の技術』で書いた以下のことである。
整理や事務のシステムをととのえるのは、「時間」がほしいからでなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからである。
「時間」が目的ではなく、そして「頭の良さ」が目的でもない。求めるべきは生活の「秩序としずけさ」である。
紀田順一郎の本に戻るが、そもそもなぜ個人で情報整理、知的生産なんかをやるのかということについて繰り返し書かれている。まとめると以下の要素である。
- 質的な面での個人性があること(組織ではカバーできない中間領域、私的性格を持っていること)
- 真理の側に立つ情報の形成が可能であること(何らかの思惑によって情報が歪められることがないこと)
そしてこう書いている。
個人の情報整理は、その独自な発想のもとに開拓された中間(学際)領域に限定してこそ、ほんらいの意義が発揮される。(p.22)
別に難しいことを言っているわけではなく、特別注意しなくても基本的にはそうなっているだろう。そして単純な話、組織が出してくれるような情報は組織がやった方が早くて正確であり、個人でやっても労力が無駄になるだけだ。だから組織がやらない領域についての情報を集め、その情報についての知的生産をすることが個人でやることの意義である。それはそう、と思えるが、そのような意義のあることとして、組織が取り上げてくれない領域を他ならぬ私が私の個人性でもって解き明かし、この世界に「知」として成立させ他の人間に提供するのだ、というような意識で知的生産に取り組んでいるかは自分に問うてみるべきだろう。
ところで紀田氏は当時の情報整理ブームについて「陥し穴がある」としてこう書いている。
なぜなら情報はカードその他に記録、加工されることによってはなはだ効果的に忘れられるという逆説的な事態が生ずるからだ。「カードは忘れるための装置」という考え方さえある。(p.51)
それゆえに梅棹の言う「くり返し繰って見返す」ということが妥当性を持つということを書き添えている。確かに「書いて安心して忘れる」ということを耳に胼胝ができるほど聞いてきたが、忘れっぱなしでは意味がないのである。それはそう。新たな情報を生み出すには、過去に見たものが脳内の俎上に載せられていなくてはならない。といっても、漫然と読み返してもしょうがないだろう。まず「新たな情報が生み出せないか」という意識を持ち、その上で積極的に繰り返し自分の築いた情報の山にアクセスしなくてはならない。ただただ「自分の頭を一度通過した情報」の山を築くことが情報整理ないしはカードづくりの目的ではない。
蓄積とは、一定の情報を活用の機会まで、あるいは活用のための適正規模に達するまで積み上げることである。(p.115)
まず"情報整理"ということの意味である。技術的にそれが"資料整理"と異なるのは単なる資料の量的な積みあげではなく、体系的な蓄積――活用の技術であるということだ。その中心となるのは、カードやスクラップなど個々の整理技術ではなく、情報の評価ということにあるのはいうまでもない。(p.125)
溜めるだけ溜めて全部生成AIに読ませて何かを生み出そうとする場合、そうすることが馬鹿げていると言うつもりはないが、そこに実際にどんな意味があるかというのはよく考えるべきだろうと思う。
せめて情報とは与えられるものではなく、求め利用するものであるという"肩ごし"の視点でもあれば救われるが、現実には主体性の欠除と物理的制約によって、性格の曖昧な情報をうのみにし、転用し、無用な再生産を行なうのみという悪しき"代償的循環"から脱出できないのである。(p.129)
50年前から状況は変わらず、それどころか悪化するばかりで、そして生成AIによってこの傾向は行くところまで行ったという感がある。
ちなみに情報づくりおよび情報の取捨選択に必要なことについて、以下のように書かれている。
大前提として歴史と社会への洞察力、想像力が不可欠の要因となるであろう。(p.40)
情報の価値を決定するのは受け手であるおのおのの哲学であり、理念であり、したがってそのつど経験、知識、判断力の全体が賭けられねばならない。(p.42)
生成AIで「文章を作る」という工程の困難さをショートカットすることに救われる部分があるとしても、結局のところどんな情報を何からどうつくるのかという方針の部分には各々の知性と信念が必要であることには変わりはないだろう。「楽になる」ことは歓迎する余地があっても、「安易になる」ことが良いことであるということは一切ない。
ここで引用したのはこの本の一部の面だけである。情報収集とは具体的にどうすべきで、どう判断しなければならないのかといった実践的な話も多く含まれている。同時代のよく知られた書籍よりも体系的に非常によく整理されており、情報の扱いというものに対する気迫を感じる。今読んでも勉強になるところが多い本である。