ブログの書き方ド下手問題⑮~敬体が下手くそ問題~
ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十五回。一年三ヶ月ぶりの更新。
今回は「敬体で書いた自分の文章がつまらない問題」について。なお「一般に敬体で書くとつまらない文章になる」ということではなく、"私が"敬体で書いたとき、常体と比してなぜかつまらない文章になってしまう現象について考え、解決を試みるものである。
人によっては逆に常体がうまくいかない人もいるだろうし、それも原因はおそらく同じことだろう。個人的な話(=つまりは自分語り)ではあるが誰かの何かの参考になる可能性がちょっとはある気がしたので記事にしておく。
私は普段、文体としては「~だ」「~である」型の常体を基本としている。誰かの記事などに対して手紙的に書くような場合や何かを解説するような時、挨拶的な文章を書く時だけ敬体を選択する。というのは、敬体で書いた自分の文章がおそろしくつまらない感じがするからである。じゃあ常体なら面白いのかというと、客観的な評価は私にはわからないが、少なくとも自分で読み返して面白いと思えるのは常体の記事の方だ。
敬体という文体そのものに面白いとかつまらないとかを決める何かがあるわけではない。敬体で書かれた文章でも面白いものは面白い。逆に常体で書かれたものでもつまらないものはつまらない。
では、何が起きているのだろうか。というより、そもそも面白いとはなんなのだろうか。
内容は文体問わず同じように考えているわけで、無価値なものを生み出しているとは思わない。全く同じ内容を書き表したとしても、常体なら面白いかもしれないものが敬体だとつまらないものになる。文体を決定づける要素の、単に語尾の常体らしさ敬体らしさだけではないところに、何か鍵があると思われる。
実はこのことについては5年前にも一度考えている。ブログの書き方ド下手問題の第三回、つまり初期も初期の話である。
しかしこの時は、「誰に向かってどういう立ち位置で語っとるんや」という部分が問題になっていた。自分は書き手としてどういう立場であるとして、読み手としてどういう存在を想定し、どういう距離感で話をするのかということだ。それが曖昧だと「気持ち悪い文章」になってしまうという問題があった。
この記事の最後に「テンション」の話をしている。ここでは「文の調子」のことを指して言っている。
テンションは文体と密接に結びついているようであるが、しかし文体とは別の次元で決まるもののようにも思う。一文一文をばらして見れば同じようでも、全体として出来上がる文章の雰囲気は人それぞれ違うものである。難しい言葉を使えば堅くて暗いのかと言えばそうでもないし、平易な言葉を使えば明るく親しみやすいかと言えばそうとも限らない。話の飛ぶ幅や登場する固有名詞の種類、大和言葉と漢語の兼ね合い、自虐や諦観の有無、そういった様々な要素から総合的に判断されるものなのだろう。
ここをもう少し掘り下げる必要があるだろう。当時は「自分節」の前提に「まず常体である」ということを決め込んでしまっていたから、敬体での自分の語りを検討することなく終わってしまったのだ。
まず「面白さ」自体、多様なものである。面白い人というのが様々いるように、面白い文というのも様々だ。その中から、自分が表現したい面白さに照準を合わせる必要がある。私が私として表現したい面白さとは、どういう意味での面白さなのか。
常体を選んでいる理由、常体ならば自由に書ける理由もその「面白さの意味」によるものである。私が目指している面白さとは、まず「滑稽味」というものがある。別の言い方をすれば「諧謔性」だ。な~んか小難しい言葉が出てきたなと思ったそこのあなた。要するにユーモアです。「ウィットに富んだ」と言ってもいい。なお私がそれを実現できているという話ではない。全ての文章について面白くしようと試みてやっているわけでもない。「面白さを表現しようとしたときに目指す形」がそれであるというだけだ。で、今まさにわざわざ「滑稽味」だの「諧謔性」だのを持ってきたことがそのひとつなのだが、「ユーモアが必要です」と言ったんじゃ私としてはさっぱり面白くない。その一文のどこにユーモアがあるのだとなる。「滑稽味がなければならぬ」とか言ったほうが面白い。令和の時代に「滑稽味がなければならぬ」などと言い出すことそのものが滑稽である。
読み手がみな自分と同じようにそこに滑稽味を感じるとは限らない。単に「わざわざ難しく言う嫌なやつ」に映る可能性もある。ただ衒学的(ペダンチック)な――これは滑稽味が乏しい種の難しい言葉である――言い回しになることは努めて避けているが、どうしたって波長というものがある。それは仕方のないことだ。
で。問題を生んでいるのは、私が敬体を選択した時、このような自分なりの面白さの追求という視点が全くなくなっていることだ。最初から諦めてしまっている。だからよそ行きの他人行儀な感じが抜けない。丁寧でもユーモアを欠いていれば、場合によっては嫌味に、あるいは慇懃無礼に映る可能性すらあるだろう。
かなり前のことだが、平山夢明著『非道徳教養講座』という本を読んだ。タイトルは三島由紀夫の『不道徳教育講座』のパロディだろう。終始「変に丁寧に」書いてあるのだが、それが可笑しみを生んでいる。例えば、「そんなことをしたら痛い目に遭うぞ」という意味のことを「――おやめください、御落命されます。」と書くなどしている。本自体はいろいろな意味で評価が分かれる感じがあるが、敬体のバリエーションとして興味深い。
たまたますぐに引用できるのがその本だったから紹介したが、その手の「敬体だからこそ可笑しい」語りは世の中に数限りなくあるはずだ。それこそ三島由紀夫もそうである。喋りでは綾小路きみまろがわかりやすいか。
ただ、それらがそのまま私の参考になるかと言うと微妙だ。というのは、「そういう面白さ」は私は常体で目指せばよいからである。では私は何を得なければいけないのか?
常体で書けるなら結局常体で書けばよいとして、どうしても敬体でなければならないタイミングというのがある。それが先に挙げた「誰かの記事などに対して手紙的に書くような場合や何かを解説するような時、挨拶的な文章を書く時」だ。読み手の存在が強く意識されていて、失礼のないように、独善的にならないように、極力丁寧に書こうとしている。そうは言っても結局は個人のブログに出している記事なのだから、ただ丁寧なだけで面白みがないんじゃ書いた甲斐がない。手紙的に書くと言っても手紙ではないのである。(ただし解説記事に限っては情報を提示できれば事足りるのでもう生成AIで作ってしまったほうがいいかもしれない。自分で書くから「つまらない」とかいう思いが生じてしまうのだ。)
難しいのは、さっき綾小路きみまろの名前を出したように、「敬体だからこそ可笑しい」の内訳として「敬体なのにちょっと無礼なのがウケる」というものが結構大きな部分を占めていて、この種の面白さというのは具体的な読み手を想定するとやりづらいということだ。余程親しい相手、あるいはファン層でないと距離感がおかしいことになる。
もうひとつ微妙なのが、自虐の使い方である。独り言なら自虐はそのまま滑稽味に転換できるのだが、誰かとのやり取り風の流れで自虐を使ってしまうと相手を困らせることになりかねない。その上、うまくやらないと相手の話に気遣いが足りなかったかのような構図を作り出してしまうこともある。それは非常によろしくない。うまくやらないとと書いたが、そもそもうまくやる余地などというものがあるのかわからない。
だんだん難しくなってきたぞ。果たして今記事を書くことを通じて解決できる話だろうか。
逃げる道はある。敬体で書くことを一切諦めることである。「ここは丁寧にした方が」という意識を勝手に抱いているから敬体にしているだけのことであって、のらてつから出てくるのは全部常体であると割り切ってしまえば余計なことは考えなくていい。常体の中で「~だ」「~である」率をちょっと下げて、「~た」「~かもしれない」「~そうだ」など印象を軽くする努力をするとか、逆に独り言感を全開にすることで「引用元に対して物申しているわけではない」というのを明確にするとかいう工夫があり得る。
「現状敬体で書いている記事がつまらない」への対応策
- 【正攻法】敬体にも面白みを伴わせる
- 【逃げ①】軽く柔らかい常体に替える
- 【逃げ②】私信感は捨てて敢えて常体での滑稽味を追求する
逃げ道は作っておいて、しかしやはり正攻法についてもっと考えねばならない。
多分だが、「面白み」のうちの「滑稽味」に囚われていると敬体での表現の難易度が高くなってしまう。ここまで書いてきたことからわかるようにそれは「変に重い」「変に難しい」「変に丁寧」というようなことから出てくるもので、つまりは「無駄に重厚」ということである(印象としては軽妙洒脱かもしれないが、それは言葉遣いが軽いのではなく、重いものを軽やかに扱うことによって生ずるものである)。そのベクトルは多分現実的ではない。そもそもそれが適切でない領域を敬体で補って書こうとしているわけだから、重厚さの要らない面白みを目指す必要がある。
重厚の逆を考えると、文字通りに言えば「軽薄」となる。ここでは必ずしも悪い意味ではなく、「うまくちょける」みたいなことを指している。SNSやnoteではまあよく見る路線である。自分の驚きや怒り、悲しみといった感情を表現したい場合に有効であり、私自身日常では割と普通に使う話法だ。しかしながら文章のための技術としてはあまり考えたことがない。つまりは「戦略的軽薄」を勘案する必要があるのではないか。ただしこの軽薄さはスパイスであって、単に浅はかで薄っぺらの文章になってはいけない。
あくまで失礼なく丁寧に、しかしそれで終わらせず戦略的に軽い可笑しみを組み込んでいく。おどけはしても自虐にならないように、感情は表現しても無礼なツッコミにならないように。それがとりあえずの目指すべき解となるか。
~今回得たこと~
- 【問題】自分が敬体で書いた時の文章がつまらない
- 面白みを追求する視点自体がなかった
- 追求すべき面白みの形が不明
- 「面白い」には種類がある(文体とは無関係)
- 重厚方向
- 個人の表現としてはやりやすいが、相手を想定すると難しい
- 軽薄方向
- 感情を表現しやすいが、文章自体が不誠実にならないよう注意が必要
- 重厚方向
- 自分の文体選択
- 常体:重厚方向の表現の手段として選んでいる
- 敬体:それが相応しくない場合の手段として選んでいる
- 【解】組み込むべきは軽薄方向の面白みである
※滑稽味の話をしたが、今回の記事はただ真剣に自分と対話したものであり、滑稽味はおそらくない。