茶の間とは:個人的な所感、なんでもないような物事を綴るミニエッセイの場です。
茶の間2026/09/21

侘び寂びあるいは枯淡

自分の美意識というか、内的世界というか、好ましく感じるイメージを表現すると、結局のところ「侘び寂び」ということに至るようだ。
そう思ってみるとなんのことはない、日本人なら多かれ少なかれ誰しも魂に宿しているだろうし、そりゃそうだなという感じがするのだが、今ここに至るまで、この四文字は自分の世界を表すものとして一度も登場しなかった。
随分遠回りをしてきた。「○○ではない」を繰り返して核に迫り、「少なくとも西洋的ではない」「やかましいのは合わない」「和風が好きなようだが京都的絢爛さはちょっと違う」などと考えうろうろして、比較的最近「仏教的だな」とか「禅的だな」とか考えてついに「侘び寂び」に行き着いた。この過程の間に、「侘び寂び」という言葉は何度も目にし耳にしている。しかしそれが自分とは結びつかなかった。

理由のひとつには、例えばパソコンに向かってプログラムを書いてデジタルツールを作ったり用いたりしているとか、インターネットを見てSNSなんかもやっているとか、YouTubeで流行りの歌や配信を見ているとか、そういう侘び寂び的でないものに日頃どっぷり使っていることがあるだろう。
しかしそれらは、「侘び寂び」と言ってイメージする時代に存在していなかったものというだけであって、アプリケーションにはアプリケーションの、SNSにはSNSの、YouTubeにはYouTubeの侘び寂びがあり得るはずである。如何なる領域においても派手で軽薄で騒々しいものは避けているのであって、それは侘び寂び的選択を常にしていると考えられなくもない。

あとは使っているものや身なりのこともある。一応傍らに筆と墨があるが、常にそれを使うわけではない。身の回りにはプラスチック製品や洋のものが溢れ、結局一番目を向けているのはパソコンとスマートフォンの画面である。日本的な服を着ることもない。今夏は普段着として浴衣を着るかと思ったが結局一度も着なかった。「思う」程度には意識を向けはするが、実践するほどの熱意はない。
派手嫌いだが、じゃあ何が好きかというとそれを突き詰められていない感じがある。貫くものがわからない。そこに未だ自我が芽生えていない。そもそも、その「欠け」を不本意に思って自分の嗜好を正確に表現するべく言葉探しの旅に出たのである。

それでもやはり自分の世界観を考えれば「侘び寂び」が核にあるような気がするが、しかし不思議にも「侘び寂び」という言葉はさっぱり自分に馴染まない。手垢がついた感が嫌なのだろうか。俗世間で「消費されている」感じに拒否感があるのかもしれない。

いや、本当に「侘び寂び」が核にあるのだろうか?
おおよその方向性は合っているがそれこそが自分のベクトルであるとは感じられないような気もしてきた。人工的な装飾を嫌うことは寂しさを愛でることとイコールではない。何らの意味でも蹂躙というものを許したくない思いがあるが、それはしみじみとした趣を追求することとは違う。喧騒を避けたいことと静寂を求めることも同じではない。
静かだがちょっと跳ねて回るくらいの動きがあることを好んでいる。自然は別に寂寞としてはいないし止まってもいない。無駄はないが単純でもない。あらゆる不自然さから解放されたいのであり、侘び寂びへのこだわりすらも余計である。高尚だとか幽玄だとかの評価がそもそもそこに「人間」を感じさせている。

「閑寂枯淡」と言ったほうがまだいいが、それもちょっと「やりすぎ」な感がある。単に「枯淡」でいいか。日本国語大辞典には以下のようにある。

俗世間の名声や利益などにとらわれないで、あっさりしていて趣があること。絵画や文章などが淡々としていて、しかも情趣があること。また、そのさま。

まあだいたいこんな感じであろう。枯淡という言葉自体が枯淡なのが好ましく感じられる。

ごちゃごちゃ書いてきたが、自分の核、全ての始まりとなる風景を探しただけのことで、私自身が何かを体現できているわけではない。というより、何かを体現するための始めの一歩をまだ踏み出してもいない。まずその起点がわかっていなかった。