記事2026/08/02

読書ノートを書き写す

 これまで記事やBlueskyで何度も「古い読書ノートを書き直しているんですよ」という話をしており、もし全部追ってくださっている人がいらっしゃるならばそろそろ「ええい、しつこいぞ」と言われそうだが、きちんと記事に書いていないことによって毎度説明をすることになっているというのもあるので、一度整理をしておこうと思う。

なぜ/いつから

 先々月の6月後半に家の中の大整理を行った(詳細→大片付け2026)。これにより、それまで曖昧にしてきたものについても「きちんとしよう」という思いが強まった。例えば形式が一切統一されていない読書メモである。
 また、その過程で紙のノートの古いものをたくさん見つけた(四半世紀前くらいのものから、自分が生まれる前レベルに古いものもある)。従来のペースの消費だと到底使い切れない感じになったので、積極的にノートを使っていこうという気持ちが生まれた。古びているノートなのでいかに貧乏性でもあまり尻込みせずに使える。
 とはいえ、ノートを使おうと思っても使い道はそうそうあるわけではない。生涯続けるノートは紙にするということを決めはしたが、そのうちでも大学ノートを使うものというと今のところ「取り組んでいるテーマについての思索」と「読書ノート」くらいである。思索は増やそうと思って増やせるわけではないし、一冊埋めるのにそれなりにかかる。読書ノートを書くには当然ながら本を読まなければならない。
 そこで、形式がばらばらゆえに全く活用されていない古い読書メモをいっそノートに書き写してしまうことにした。この作業を始めたのが6月22日のことである。なおこの時点では明らかに読みづらい形式のメモのみを対象とし、せいぜい50ページ分くらいのつもりでいた。つまり一般的な厚さのノート1冊分である。さすがにそれ以上の書き写しは現実的とは思えなかった。

何をどうしているのか

 具体的に何を使ってどう書いているか。

  • B5大学ノートに2BかBの鉛筆で書く
    • 一冊分写したら読み返して黄色と朱色の色鉛筆でマーク
  • 詰めずにのびのびと書く
  • 原則として内容の取捨選択はせずそのまま書き写す
    • 書き方が悪くてわかりにくかった部分は改める
  • 目次のコピーなどがある場合は適宜貼る
  • 対象は2013年から2022年あたりの読書メモ
    • 形式はB5ノート、A5ノート、B5ルーズリーフ、A5ルーズリーフ、システム手帳のリフィル、小さい手帳など多岐にわたる
  • 古い順に書き写すが、なんとなくのテーマでノートを分ける(生き方っぽいもの、仕事術っぽいもの、等)

 やり始めてみると、殊の外楽しい作業であることがわかった。今の自分と十数年前の自分とでは着眼点は多少違っているし、おそらく当時メモを取らなかった箇所に今の自分なら関心を向けるであろうと思うが、とはいえ過去の自分が重要とか面白いとか思ったものは大概今でも面白い。忘れていたことはたくさんあるし、「そういえばそうだった」と思いつつも、新鮮な気持ちにもなる。そして元のメモよりいい感じにノートを作っていくということに達成感もある。
 面白い現象だと思ったのは、全く読む気にならなかったメモというのは、読んだところでわかりにくいし字も汚くて読んでいられないだろうと感じていたから読む気を起こさなかったのだが、書き写すために読むとなると普通に読めたことである。メモの書き方が実際不十分で文脈を欠き意味が不明瞭になっている記述は少なくなかったが、しかし大方は別に苦労もなく読むことができた。ぱっと見では確かに何がなんだかわからないようなメモになっていても、読めば読めるのである。(ただし「書き写すために読む」という気合の入り方だったから読めただけで、後述の種々の問題によりパラパラと読むことは困難なものであったことには違いない。)
 思いがけず楽しいしすいすい読めたことで、じゃあこの束も片付けよう、この形式も写してしまおう、という具合に事前の想定を超えて進んでいった。7月末時点で約300ページ書き写した。最初から300ページ転記が必要と想定していたらとてもじゃないがやれなかった。既にある情報の書き換えにそんな手間をかけるのはどう考えても馬鹿馬鹿しいことだ。しかし思っていたほどの手間ではなかったわけである。それは私が終始ノリノリで全く倦むことなく猛然とやり続けられているからであって、テンションというものが如何に大事であるかということを思い知った。
 ちなみにまだ終わっていない。本当に我慢ならない状態だった分はもう写したので残りの作業は優先順位が下がっており、完了まではもうしばらくかかる予定だ。気が向いたら進めようくらいの感じである。

何がどうなったのか

 この作業は何をしたことになるのかというと、つまり以下の二点である。

  • 規格をB5大学ノート一本に統一
  • 他の種類のメモを排除し読書メモのみを集約

 規格の統一ということには一般に二つの方法がある。ひとつは紙の規格を統一すること。もうひとつはデジタル化して紙面の規格の違いを考える必要をなくすことだ。
 読書メモは全てスキャンしてデジタル化してある。なので後者の意味での規格化は既に済んでいた。確かにデータとしての扱いづらさは解消されるが、これは自分の目で読む必要があるものであり、そもそも読みづらいものをデジタル画像にしたところで読みづらさは変わらない。更にそもそものことを言えば、私は手書きのメモをディスプレイで読みたくない。
 なので、私にとって現実的に意味のある規格化は紙の規格自体を統一することである。これには大変な手間がかかるわけで、よっぽど意義があるか楽しいかでないと実行できない。もっと重要なことがあればそちらをやるべきだし、やらねばならないことは他に無限にある。今回やれたのは、これが「読書メモ」だったからにほかならない。読書ノートは人生の財産である。それにもかかわらずめちゃくちゃな状態であったからこそ私はずっと不満を抱えていたのであり、どうでもいいようなメモなら規格がめちゃくちゃでも別に構わないのだ。

 過去の読書メモは、読書専用のノートではなく、他の種類のメモも混ざったノートの中に書いていた。「1冊のノートにまとめなさい」の影響を受けてのことである。このやり方が良くないということは決してないのだが、しかし相性というものがあることは否めない。相性を左右する要素はいろいろあるが、決定的なのは「自罰性があるか」である。
 ウキウキワクワクした感じの記述だけを書けるならば内容の混沌は大して問題にならないが、自分自身について何か不本意なところがあるのが記述に表れていると、他の種類の記述も巻き込んでノート全体が負のオーラを纏い始める。別に「自分はなんて駄目なんだ」といったあからさまな自傷行為的記述をしているのではなくとも、うまくいっていないことについての反省をたびたび書いているようであれば楽しいノートとしては見れなくなる。私の古いノートはこれが多いので、一緒に書いてある楽しいはずの記述を読み返すのが難しくなっている。「過去の自分の失敗も時が経てば笑って見られるようになる」と言う人はいるが、私はその境地には達していないし、多分この先もそうはならないと思う。
 また、「読書ノートはその時の自分の環境とセットだからそういうのも一緒に書いたほうがいい」という話をいくつか見たことがある。納得する気持ちもなくはないのだが、個人的には読書ノートは本の内容オンリーの方がいい。比較的最近、数年前のノートは負のオーラがない状態で他の記述と混ざっているが、混ざっている方がいいという気持ちは特にない。全部一緒くたなら書く時に楽というだけで、私の気質を踏まえるならばノートを分けるに越したことはないというのが私個人の見解である。これは当然「人による」話である。

読書メモの書き方についての反省

 規格やノートの設計の話とは別に、記述そのものにもさまざま反省がある。

  • 物理的に読みづらい
  • 読むのに認知資源を消費する
  • 記述の意味がわからない
  • 余計な要約により記録として意味をなしていない

 あくまで私の目にとっての話だが、まずシャープペンシルで書いているノートは駄目だ。光を反射する、薄い、細い、のトリプルコンボでストレスが大きい。字の部分をカラーのペンで書いているのもよくない。字が細かいのもいけない。部分的に細かいだけならいいのだが、全体がこまい字で書いてあると「お前はこれを読めると思うのか?」と当時の自分を問い詰めたくなる。
 ぎゅうぎゅうに詰め込んであるのも非常によくない。記述自体に問題はなくても余白がないというだけで認知資源を大量に消費し、読むのが困難になる。以前は「一冊の本を一枚にまとめる」というようなことに憧れがあったこともあって、それが「情報量は多いに越したことはない」という発想と魔融合してひたすらみっちり書いていた時期があった。情報を削ぎ落とした結果一枚にまとまるという順序であるべきだし、そもそも無理して一枚にまとめなくていい。子どもの学習ノートの作り方においては「余白をとって贅沢に使え」ということが鉄則だ。大人も当然同じである。普段は別にそんなに詰めて書いたりはしないが、なぜか読書ノートに関してはその基本を忘れていた。
 昔はそのように詰めて書くために、小さく書いてもはっきり見えるボールペンまたは万年筆を使っていた。ペンで書くとなれば書き間違いに注意しなければならないし、ペン書きだと字の汚さが目立つのでいちいち神経を使っていた。また当然ながらペンや万年筆は多少のコストがかかる。
 この反省から、ページ当たりの記述量は1/3から1/2程度にして、2BやBの鉛筆を使って大きめの文字ではっきり書くことにした。小学生のノートのようなものである。元々鉛筆の書き味が好きなので普段の筆記は九割方鉛筆を使っているし、鉛筆で書くことは私にとってはごく当たり前のことだ。
 あと最低限丁寧に書くことが大事である。本を読んでいる時は「今感じている感動」に忙しいのでちゃちゃっと書いて済ましてしまったりするが、読書ノートは基本的に一生残すものであって、いわゆる「永久保存版」のものはそんな雑にしない方がいい。

 何をどう書くかということにも反省がある。後からどうしようもないという意味でこちらの方がより深刻な問題である。
 過去の読書メモによくあるのが、文脈がわからないということだ。重要だと思ったフレーズがあったとして、そのフレーズそのものだけをメモしていて、その言葉がどういう文脈の中でどういう意味で選択されたものかがわからない。自分のどこに響いたかも書いていない。ねぎま式読書ノートレーニンのノート術のように、自分の感想、つまりノートにわざわざ書き抜いた意図を残しておかないと、ノート自体の価値が丸ごとなくなってしまう。後になって考えてもわからないわけで、文脈を掴むにはまたその本を読み直す必要がある。「読み直せばいい」とも言えるが、それは時間が無限にあればの話である。――いや、著者の文脈は「読み直せばいい」としても、その時の自分の文脈はもう取り戻せない。やはり最低限思い出せる程度にちゃんと書くべきである。
 総じて、「ま、これだけ書いとけば思い出せるだろう」という甘えがある。未来の自分は別の文脈で忙しく毎日をどうにか生き抜いているのである。昔のいっときの「感じ」を覚えているはずもないし、それを思い出してもらうのにいちいちうんうん考え込ませる気かということである。一言書けば未来の自分が苦労をしなくて済むのに、今今の面倒くささで少しの手間を惜しむから後で困ったことになるのだ。

 もうひとつ困ったのが、変なレイアウトである。例えばコーネルメソッドなんかに興味を持ったことがあって、コーネルメソッド自体はもちろんとても合理的で学生の勉強や議事録づくりの際には重宝する技術なのだが、それを半端に読書メモに取り入れた感じなのがよくない。中央に本筋っぽい要素、サイドにワンポイントっぽい要素、下に要約っぽい要素を書いていたりするのだが、後から見たときにそのような余計な配置が文脈の再構築の邪魔になる。普通に上から下に順番に書いてあるほうがよい。
 これはつまり、「永久保存版のノート」であるべきところを「その時点での理解のためのノート」のやり方で書き残そうとしているからおかしいことになるのである。それも無自覚にやっているからよくない。
 ノートが「永久保存版」であるというのは、読み返す私の文脈が如何様に変わっても読み物として変わらぬ価値があるということだ。「その時点での理解のため」のものは、「その時点」の文脈に依存しているから、時が経つと使い物にならなくなってしまう。どちらがいいとか、どちらでなければならないということではない。私にとって必要な読書ノートは「永久保存版」のものであり、その目的に合わないやり方を取ってしまったがために結局まともに見返すこともなく放置されてきてしまったのである。
 キーワードは「読み物」になるかもしれない。本という読み物を読み、そしてそれについてのノートを読み物として残す。それは自分用のオリジナルの読み物であり、本と自分が混ざりあった固有の価値を持つものだ。読み物と言ってももちろんひと続きの文章ではない。本の抜き書きと、それにまつわる文脈の記録を追い直すことができる形に保存してあるもので、それは一連の文章ではないが基本的にによって構成されている必要はあるだろう。

自分の読書の歴史を一気に駆け抜ける

 書き写しをやるにあたって、今存在しているだけの過去の読書メモを一通り読んだ(2012年以前にもメモは取ったはずだが確認できない)。十数年分の読書の歴史を一気に駆け抜けたわけである。そうしてみると色々なことが見えてきて面白い。必ずしも読書体験が熟れる一方ではなかった。
 初期の方は読書とはこのようにするものだ的なセオリーをよくわかっていなかったし、何かしら読んでいるだけで自分としては偉いという感じであったので、自分の目的に合う本を、自分の目的に沿って読み、ただ自分の目的に役立つ部分のメモを取っていた。ある意味では主体的な読書をしていたとも言える。
 しかしその後、読書法を説く本やノート術を紹介した雑誌などをあれこれ読むことで、変にフォーマットを作ろうとしたり一枚にまとめようとしたり他の人の説く読書術を真に受けたりで迷走し始める。方法論についての知識すらなかった時はただシンプルに読んでいたのに、誰それのなんとか法みたいなのを知るようになって読書体験としては逆に質が悪くなっていった。それぞれの言っていることがおかしかったというのではなく、それらを何の軸も持たずに見境なく取り込んだのが問題なのである。

 また、一気に見返すと全く別の時期に読んだ二つの本に通底する要素が見えてくる。あっちの本のこれとこっちの本のこれは、つまるところ同じことを言っていたのだなということに今更気がつく。読書ノートの形にしてあるものを更に飛ぶように読み直すことによって、本の文脈から個々の記述が遊離し、別のものとくっつきやすくなる。
 読書に慣れている人は普通の日常の読書でその反応が当たり前に起きていると思うが、読書の頻度が十分でないと「あの本のあれ」を思い出すような回路がなかなか鍛えられないのだと思う。

 そして読書メモというのは自分なりに抜き出したその本のエッセンスであるから、必然的に「濃い」ものになっている。目の覚めるような記述も頻繁に出てくるし、自戒を迫るようなものも次々登場する。それらを百冊やそれ以上の分一度に叩き込まれたことになり、否応なしに気分も改まる。別にそれで生まれ変わったという話ではないが、肩を掴まれてぐいと胸を張らされたようなところはある。
 長らく読書ノートを見直していないという人がいたら、「一気読み」を一度試してみると面白いかもしれない。


 思いがけずおそろしく長い記事になってしまったが、「読書メモを書き写す」ということにまつわる所感は一通り書き残すことができたのではないかと思う。ふう。